病中記
寺田寅彦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午《ひる》過ぎから帰るつもりでいた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年一月)
−−

 大正八年十二月五日 晴 金曜
 二、三日前から風心持であったが、前日は午前に気象と物理の講義があったから出勤した。午《ひる》過ぎから帰るつもりでいたが案外気分がいいし天気もいいから白木屋《しろきや》の俳画展覧会を見に行ったらもうすんでいた。それから丸善へ行って二冊ばかり教室へ届けさせるようにした。胃の工合があまりよくなかったが気分がいいので乗合自動車で銀座へ行った、そして例のように風月《ふうげつ》へはいってコーヒーを呑んだ。胃がよくないと思って一杯でよしたのであった。五日の朝は風邪もよくなったようだし胃もいいような気がした。しかし朝は授業がないからゆっくりして日のよく当った居間の障子の内で炬燵《こたつ》にあたりながら何かしていた。十時半頃に学校へ行ったら「数物」の校正が来ていたからすぐに訂正して木下君の部屋へ持って行った。自分の室へ帰って先日国民美術協会でやった講演「雲の話」の筆記を校正していた。一、二頁見ているうちに急に全身が熱くなって来た。蒸風呂《むしぶろ》にでもはいったようで室内の空気がたまらなく圧《お》しつけるように思われた。すぐに立って左側の窓をあけたが風を引きかえしてはいけないと思ってすぐにまた締め切った。上衣を脱いで右側の机の上に投げ出し机の前に帰ったが同時に名状の出来ない胸苦しさを覚えた。横臥したいと思ったが寝る所がないから机の上に突伏《つっぷ》して右に左に頭をもたせてみたが胸苦しさは増すばかりで全身は汗ばんで来た。室の向うの隅に毛布があるのを思い出して席を立ってそれを取りに行った。毛布に手をかけた瞬間に眼界が急に真暗になってからだが左右にゆらぐを覚えた。何とも知らずしまったという気がした。次の瞬間には自分の席の背後の扉の前に倒れていた。どうしてここまで来たかは全く覚えていない。何とも云えぬ苦悶が全身を圧《おさ》え付けて冷たい汗が額から流れた。その苦しみを少しでも軽くする唯一の方法として大きな唸《うめ》き声を出しつづけた。二、三日前靴を修繕にやったので古いゴツゴツの靴をはいていたがそれが邪魔で堪らない。足を悶《もだ》える度《た
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング