び》にそれがコツコツ戸棚や扉に当る堅い冷たい不愉快な感覚が非常に誇張されて苦しみを助けた。室の入口の壁に立っているスチームヒーターの上に当る白壁が黒く煤《すす》けているのが特に目立って不愉快であった。妙な事にはこの汚い床の上に打倒れてうめいている自分とは別にまた自分があって倒れている自分を冷やかに傍観しているような気がした事であった。
助手の浅利君は部屋に居なかった、出勤している事は帽子掛の帽子と外套でわかっているが朝から顔を見なかった。平日でも自分の室の前はめったに人の通らないところである。呼鈴《よびりん》を押しに立つ事は到底出来ないから浅利君が帰るまで待っている外にはどうする事も出来ないのであった。ガランとした室の天井を見るのが心細かった。ふるえる手で当もなく手掛りのない扉の面を撫で廻しながら動物のような唸《うな》り声をつづけていた。何分くらいこの状態が続いたか分らないが自分には恐ろしく長いものに思われた。そのうちに軽い足音が廊下に聞えて浅利君が這入《はい》って来たので急いで呼びかけた。入口から自分の寝ているところは見えないから返事はしたが自分がどこに居るかわからなかったようであった。二声三声呼んでいるうちに自分の倒れているのを見付けて急いでやって来た。驚いて寄って来た。机の上に胃活《いかつ》の鑵《かん》があるから取ってくれと頼んだらすぐに取って来て呑ませようとした。しかし水がなくては呑めないからどうか水を一杯くれと云った。浅利君はすぐに小使室へ茶碗を取りに行った。それを待っているうちに急に嘔気《はきけ》が込み上げて来たので右向きに頭を傾けて吐いた。吐こうと思う瞬間に吐くものが黒い血だなという予感が頭に閃《ひらめ》いた。吐いてみたら黒い血が泥だらけの床の上に直径十センチくらいの円形を染めた。引続いて吐いたのはやや赤い中に何だか白いものの交じったので、前のの側に不規則な形をして二倍くらいの面積を染めた。浅利君が水を持って来たから医者を呼んでくれと頼んだ。吐いてしまったら胸苦しさはなくなったが急に力が抜けたような気がしてそのまま動かずに天井を見ていた。脈摶《みゃくはく》を取ってみたがたしかであった。なんだか早く宅《うち》へ帰って寝たいと思った。宅へ電話をかけてもらおうかと思ったがまあ急《せ》く事はないと思ったりした。
そのうちに見知らぬ医者が来た。(後で聞いたら
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