出した。椰子《やし》の木の森の中を縫う紅殻色《べんがらいろ》の大道に馬車を走らせた時の名状のできない心持ちだけは今でもありあり胸に浮かんで来るが、細かい記憶は夢のように薄れて、ただ緑と赭《あか》の地色の上に染め出された更紗模様《さらさもよう》のように混雑してしまっている。それでもこの寒く冷たい寝床の上で、強烈な日光と生命のみなぎった南国の天地を思うのはこの上もない慰藉《いしゃ》であった。
サイクラメンのほうは少し生育が充分でなかった。花にもなんだか生気が少なく、葉も少し縮れ上がって、端のほうはもう鳶色《とびいろ》に朽ちかかっていた。自分はこの花について妙な連想がある。それはベルリンにいたころの事である。アカチーン街の語学の先生の誕生日に、何か花でも贈り物にしたいと思って、アポステル・パウルス・キルヘの前のけちな花屋へ寄って、あれかこれかと物色した末に買ったのがこの花であった。日本から輸入されたらしい桃色のちりめん紙で鉢《はち》を包んでもらって、すぐその近所の先生の宅《うち》へ持って行った。その時に先生がこれはアルペン菫《ファイルヘン》という花だと教えてくれた。そのせいだか自分にはサイ
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