かであるから惜しいと言って、妻がひざの上にのせて持ち帰った。しばらくはそれを応接間へ出してあったが、後には縁側の外の盆栽台に置かれたままで、毎夜の霜にさらされていた。ベコニアはすっかり枯れて茎だけが折れた杉箸《すぎばし》のようになり、蟹《かに》シャボの花も葉もうだったようにベトベトに白くなって鉢《はち》にへばりついている。アスパラガスの紗《しゃ》のような葉だけはまだ一部分濃い緑を保って立っている。
 三週間余り入院している間に自分の周囲にも内部にもいろいろの出来事が起こった。いろいろの書物を読んでいろいろの事も考えた。いろいろの人が来ていろいろの光や影を自分の心の奥に投げ入れた。しかしそれについては別に何事も書き残しておくまいと思う。今こうしてただ病室をにぎわしてくれた花の事だけを書いてみると入院中の自分の生活のあらゆるものがこれで尽くされたような気がする。人が見たらなんでもないこの貧しい記録も自分にとってはあらゆる忘れがたい貴重な経験の総目次になるように思われる。
[#地から3字上げ](大正九年五月、アララギ)



底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
 
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