る。
H首相が入院していた時の物々しい警戒を思い出す。悪いことをしないものは恐ろしくて通れなかった。
昔の医科大学の時計台もとくに無くなった。去年札幌へ行って、明治時代の時計台建築の遺物を見て涙が出そうな気がした。年を取ると涙腺の居ずまいが変ると見える。
「鉄門」も塞がれた。鉄門という言葉は明治時代の隅田川のボートレースと土手の桜を思い出させる。鉄門が無くなって、隅田堤がコンクリートで堅まれば、ボートレースの概念もやはり変って来る。明治の隅田川はもうなくなった。ただの荒川下流になった。
またある日。
本郷区役所がコンクリートの豆腐に変った。隣りのからたち寺の樹立《こだち》、これだけは昔のままらしい。
電柱の雀がからたち寺へ飛んで行く。人間の世界は何もかも変って行くが、雀はおそらく千年前の雀と同じであろう。
またある日。
赤門からはいって行く。欅《けやき》の並木をつつむ真昼の寒い霧。向うから幸福な二人連れが来てすれちがう。また向うからただ一人、洋紅色のコートを着た若い令嬢が俯向いたまま白いショールで口を蔽《おお》うて、ゆっくりゆっくり歩いて来る。血色のいい頬、その頬が涙で洗
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