ロビールの活動照明、ビール罎の中から光の噴泉が花火のように迸《ほとば》しる。
 靴が見えない。玄関の隅々をのぞき廻る。「××さん、靴はあちらですよ」。白い制服を脱いだ看護婦達はやはり女性である。
 またある日。
 廊下の突当りの流し。タップをひねれば、いつでも湯が出る。一つコックの工合の悪いのがあって、それから湯が不断に流出している。もったいない、と知らぬおばさんが云う。暖かい湯気が立上がる。しおれた白百合やカーネーションが流しの隅に捨ててある。百合の匂。カーネーションの匂。洗濯する人。お化粧する人。
 小使が流しの上へ上がって、長い棒を押し立てて、何かゴボゴボ音を立てている。棒の先にゴムの椀のようなものが取付けてある。この椀を流し口の穴の上に俯向《うつむ》きに当てて、押したり放したり押したりまた放したりする。流し口の穴のつまったのをこうして疎通させる工夫と見える。流しの鉛管をつまらせる事は日本人の特長であるらしい。
 看護婦が手押車に手術器械薬品をのせたのを押して行く。西日が窓越しに看護婦の白衣と車の上のニッケルに直射する。見る目が痛い。手術される人はそれがなお痛いことであろう。
 病院で手術した患者の血や、解剖学教室で屍体《したい》解剖をした学生の手洗水が、下水を通して不忍池《しのばずのいけ》に流れ込み、そこの蓮根《れんこん》を肥やすのだと云うゴシップは、あれは嘘らしい。
 廊下の東詰の流しの上の明かり窓から病院の動物小屋が見える。白兎やモルモットらしいものが檻《おり》の中に動くのが見える。これらの動物は、神経を切られたり、動脈へゴム管を挿されたり、病菌を植付けられたり、耳にコールタールを塗って癌腫《がんしゅ》の見本を作られたりする。
 谷を距《へだ》てた上野の動物園の仲間に比べるとここのは死刑囚であろう。
 動物をいびり殺した学士が博士になる。
 殺される動物は、ほがらかな顔をしている。
 またある日。
 屋上へのぼる。階上に洗濯室が二つ。鼠色の制服を着た雑使婦の婆さんが洗濯している。どこかミレーの絵の鼠色の気分である。屋上の砂利の上に関東八州の青空。風が強くて干し物がいくつか砂利の上に落ちている。清らかになまめかしい白足袋も一足落ちている。北側の胸壁にもたれて見下ろす。巡査が一人道側へ立って警戒している。何の警戒か分からぬ。しかし何かを警戒していることは分か
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