鞄《おりかばん》でも抱えた日本魂をも教える方がよくはないかという気がしたのである。
それはとにかく、このドイツ訳がどれくらい原著に忠実であるかということは自分には分かりかねるが、しかしところどころあたってみるとかなり在来の日本人の註釈などとはちがっていて誤訳ではないかと思うところもある。しかしこのドイツ訳の方がともかくも話の筋がよく通っていて読んで分かりやすいことだけはたしかである。例えば「大方無隅《たいほうむぐう》。大器晩成《たいきばんせい》。大音希声《たいおんきせい》。大象無形《たいしょうむけい》。」というのを「無限に大きな四角には角がない。無限に大きい容器は何物をも包蔵しない。無限に大きい音は声がない。無限に大きな像には形態がない」と訳してある。「大器晩成」の訳は明らかにちがっているようではあるが、他の三句に対してはこの訳の方がぴったりよく適合するから妙である。それは別として、ここのドイツ訳は数学者や物理学者にとってなかなか面白く読まれるであろう。同様な意味で面白いのは「大曰逝《だいをせいといい》。逝曰遠《せいをえんといい》。遠曰反《えんをはんという》。」の最後の句を「無限の遠方は復帰である」と訳してあるが、これはアインシュタインの宇宙を指しているようで面白い。また「無有入於無間《あることなきはむかんにいる》」を「個体性のないものは連続的物質中に侵入する」と訳しているが、これは、何となく古典物理学のエーテルを云っているようで面白い。「故致数車無車《ゆえにくるまをかぞうることをいたせばくるまなし》」を「部分の総和は全体ではない」と訳しているのでも、当否は別としてやはり面白い。欠けた硝子《ガラス》片を寄せたものは破《わ》れない硝子板にはならないのである。
老子は虚無を説くから危険思想だとこわがる人があるそうである。しかし自分が電車で巡り合った老子の虚無は円満具足を意味する虚無であって、空っぽの虚無とは全く別物であった。老子の無為は自覚的には無為であるが実は無意識の大なる有為であった。危険どころかこれほど安全な道はないであろう。充実したつもりで空虚な隙間だらけの器物はあぶなく、有為なつもりの無能は常に大怪我の基である。老子の忠告を聞流しているために恐ろしい怪我や大きな損をした個人や国家は歴史のどの頁にもいっぱいである。
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