して小わきにかかえ、そうして「トーン、トーオン、トンガ※[#小書き片仮名ラ、1−6−90]シノコー(休)、ヒリヒリカラィノガ、サンショノコー(休)、ゴマノコケシノコ、ショウガノコー(休)、トーントーントンガ※[#小書き片仮名ラ、1−6−90]シノコ」と四拍子の簡単な旋律を少しぼやけた中空なバリトンで歌い歩くのがいた。その大きなまっかな張り抜きの唐辛子《とうがらし》の横腹のふたをあけると中に七味《しちみ》唐辛子の倉庫があったのである。この異風な物売りはあるいは明治以後の産物であったかもしれない。
「お銀《ぎん》が作った大ももは」と呼び歩く楊梅《やまもも》売りのことは、前に書いたことがあるから略する。
しじみ売りは「スズメガイホー」と呼び歩いた。牡蠣《かき》売りは昔は「カキャゴー」と言ったものらしい、というのは自分らの子供時代におとなからしばしば聞かされたたぬきの怪談のさまざまの中に、この動物が夜中に牡蠣売りに化けて「カキャゴーカキャゴー」と呼び歩くというのがあって、われわれはよく夜道を歩きながらそのたぬきのまねをするつもりで「カキャゴー」「カキャゴー」と叫び歩き、そうして自分で自分の声におびえることによって不思議な神秘の感覚を味わい享楽したものであった。
北の山奥から時々姿を現わして奇妙な物を売りありく老人がいた。少しびっこで恐ろしく背の高いやせこけた老翁であったが、破れ手ぬぐいで頬《ほお》かぶりをした下からうすぎたない白髪がはみ出していたようである。着物は完全な襤褸《ぼろ》でそれに荒繩《あらなわ》の帯を締めていたような気がする。大きい炭取りくらいの大きさの竹かごを棒切れの先に引っかけたのを肩にかついで、跛《びっこ》を引き歩きながら「丸葉柳《まるばやなぎ》は、山《やま》オコゼは」と、少し舌のもつれるような低音《バス》で尻下《しりさ》がりのアクセントで呼びありくのであった。舌がもつれるので「山オコゼは」が「ヤバオゴゼバ」とも聞こえるような気がした。とにかく、この山男の身辺にはなんとなく一種神秘の雰囲気《ふんいき》が揺曳《ようえい》しているように思われて、当時の悪太郎どもも容易には接近し得なかったようである。自分もこの老いさらぼえた山人に何とはなしに畏怖《いふ》の念をいだいていたが、しかしその「山オコゼ」というのがどんなものだか知りたいという強い好奇心を長い間もちつづ
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