も枇杷葉湯《びわようとう》売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸《からすまる》枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに肩にかついで「ホンケー、カラスマル、ビワヨーオートー」と終わりの「ヨートー」を長く清らかに引いて、呼び歩いていたようにも思うし、また木陰などに荷をおろして往来の人に呼びかけていたようにも思う。その声が妙に涼しいようでもあり、また暑いようでもあった。しかしその枇杷葉湯《びわようとう》がいったいどんなものだか、味わったことはもちろん見たこともなかった。そのころもうすでに大衆性《ポピュラリティ》を失ってしまって、ただわずかに過去の惰性のなごりをとどめていたのではないかと思われる。東京で震災前までは深川《ふかがわ》へんで見かけたことのあるあの定斎屋《じょさいや》と同じようなものであったらしいが、しかし枇杷葉湯のあの朱塗りの荷箱とすがすがしい呼び声とには、あのガッチンガッチンの定斎屋よりもはるかに多くの過去の夢と市井の詩とを包有していたような気がする。
 生菓子をいろいろ、四角で扁平《へんぺい》な漆塗りの箱に入れたのを肩にかけて、「カエチョウ、カエチョウ」と呼び歩くのは、多くは男の子で、そうして大概きまって尻《しり》の切れた冷飯草履《ひやめしぞうり》をはいていたような気がする。それが持って来る菓子の中に「イガモチ」というのがあった。道明寺《どうみょうじ》の餡入《あんい》り餅《もち》であったがその外側に糯米《もちごめ》のふかした粒がぽつぽつと並べて植え付けてあった。ちょうど栗《くり》のいがのようだと言うので「いが餅」と名づけたものらしい。「カエチョウ」の意味は自分にはわからない。このはかない行商の一人に頭蓋骨《ずがいこつ》の異常に大きな福助のような子がいた。だれかが試みに一銭銅貨と天保銭《てんぽうせん》を出して、どちらでもいいほうを取れと言ったらはっきりと天保銭を選んだといううわさがあった。また、その生きている頭蓋骨をとっくにどこかの病院に百円とかで売ってあるのだという話もあった。
 七味唐辛子《しちみとうがらし》を売り歩く男で、頭には高くとがった円錐形《えんすいけい》の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につる
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