けていた。それでとうとう母にねだって二つ三つの標本を買ってもらった。それは、煙管貝《きせるがい》のような格好で全体灰色をした一種の巻き貝であって、長さはせいぜい五六|分《ぶ》ぐらいであったかと思う。もちろん貝がらだけでなく生きた貝で、箱の中へ草といっしょに入れてやるとその草の葉末を蓑虫《みのむし》かなんぞのようにのろのろはい歩いた。海でなくて奥山にこんな貝がいるというのがいかにも不思議に思われたが、その貝の棲息状態《せいそくじょうたい》などについてはだれも話してくれる人はなかった。海の「オコゼ」は魚であるのになぜ山の「オコゼ」が貝であるかも不可解であった。
「山オコゼ」がどうして売り物になるか、またそれを買った人がどういう目的にそれを使用するか、という疑問に対して聞き得たことを今ではぼんやりしか覚えていない。なんでも今日のいわゆる「マスコット」の役目をつとめるというのであったようである。たとえばこれを懐中しているとトランプでもその他の賭博《とばく》でも必勝を期することができるというのであったらしい。もちろんこの効験は偶然の方則に支配されるのである。
「丸葉柳《まるばやなぎ》」のほうはどんな物だか、何に使うのか、それについては自分の記憶も知識も全然空白である。

 売り声の滅びて行くのは何ゆえであるか、その理由は自分にはまだよくわからないが、しかし、滅びて行くのは確かな事実らしい。
 普通教育を受けた人間には、もはやまっ昼間町中を大きな声を立てて歩くのが気恥ずかしくてできなくなるのか、売り声で自分の存在を知らせるだけで、おとなしく買い手の来るのを受動的に待っているだけでは商売にならない世の中になったのか、あるいはまた行商ということ自身がもう今の時代にふさわしくない経済機関になって来たのか、あるいはそれらの理由が共同作用をしているのか、これはそう簡単な問題ではなさそうである。それはいずれにしても、今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や好事家《こうずか》に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。国粋保存の気運の向いて来たらしい今の機会に、内務省だか文部省だか、どこか適当な政府の機関でそういうアルキーヴスを作ってはどうであろうか。
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