もっていたように思われる。このアペンディックスが邪魔にならないようにかなりな苦心を払っているような形跡が見える。少なくもこの点では清長のほうが歌麿よりもはるかにすぐれていると私は信じている。
これだけのわずかな要点を抽出して考えても歌麿《うたまろ》以前と以後の浮世絵人物画の区別はずいぶん顕著なものである。
たとえば豊国《とよくに》などでも、もう線の節奏が乱れ不必要な複雑さがさらにそれを破壊している。試みに豊国の酒樽《さかだる》を踏み台にして桜の枝につかまった女と、これによく似た春信《はるのぶ》の傘《かさ》をさして風に吹かれる女とを比較してみればすべてが明瞭《めいりょう》になりはしないか。後者において柳の枝までが顔や着物の線に合わせて音楽を奏しているのに、おそらく同じつもりでかいた前者の桜の枝はギクギクした雑音としか思われない。足袋《たび》をはいた足のいかつい線も打ちこわしである。しかし豊国などはその以後のものに比べればまだまだいいほうかもしれない。
北斎《ほくさい》の描いたという珍しい美人画がある。その襟《えり》がたぶん緋鹿《ひが》の子《こ》か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング