浮世絵の曲線
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伽藍《がらん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十二年一月、解放)
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 浮世絵というものに関する私の知識は今のところはなはだ貧弱なものである。西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。それだけの地盤の上に、それだけの材料でなんらかの考察を築き上げようとするのである。ちょうど子供がおもちゃの積み木で伽藍《がらん》の雛形《ひながた》をこしらえようとしているのとよく似た仕事である。それが多少でも伽藍らしい格好になるかならないかもおぼつかないくらいである。しかし古来の名匠は天然の岩塊や樹梢《じゅしょう》からも建築の様式に関する暗示を受け取ったとすれば、子供の積み木細工もだれかに何かの参考になる場合がないとは限らない。
 色彩をぬきにして浮世絵というものを一ぺんばらばらにほごしてしまうと、そこに残るものは黒白のさまざまな切片といろいろの形状をした曲線の集団である。こうしてほごした材料を一つ一つ取り出して元の紙の上にいろいろに排列してみる。するとそこにできたものは未来派の絵のあるものの写真とよく似たものができるだろうと思う。
 しかしそのような排列のあらゆる可能な変化のうちで、何かしらだらしなく見えるのと、どこか格好よく調子よく見えるものとの区別がありはしないか。これはむつかしい問題ではあるが、そういう区別があるとしないとある種の未来派の絵などの存在理由は消滅しそうに思われる。
 色彩を取り去ったあとの浮世絵の中に見いだされる美の要素がいかなるものであるかを考えるのは、結局前にあげた問題の答案を求めると同じ事に帰着するのではないかと私には思われる。
 黒白の切片の配置、線の並列交錯に現われる節奏や諧調《かいちょう》にどれだけの美的要素を含んでいるかという事になると、問題がよほど抽象的なものになり、むしろ帰納的な色彩を帯びては来るが、しかしそれだけにいくらか問題の根本へ近づいて行きそうに思われる。
 ともかくもこのような考えを頭において浮世絵の写真を見て行くのも一つのおもしろい実験にはなるだろう。そう思って私は試みに手近な書物のさし絵を片はしから点検して行った。その時に心づいた事を後日のための備忘録としてここに書き止めておきたいと思う。ことによるとこんな事はもうとうにだれかが言いふるした陳腐な議論かもしれない。もしそういう文献に通じた読者があったら教えを請いたいと思うのである。
 私の調べてみたのは主として人物、特に女性を描いたものである。しかし以下にいうところの命題の大部分は、適当に翻訳する事によって風景画にも応用されるだろうと思っている。
 
 浮世絵の画面における黒色の斑点《はんてん》として最も重要なものは人物の頭の毛髪である。これがほとんど浮世絵人物画の焦点あるいは基調をなすものである。試みにこれらの絵の頭髪を薄色にしてしまったとしたら絵の全部の印象が消滅するように私には思われる。この基調をなす黒斑に対応するためにいろいろの黒いものが配合されている。たとえば塗下駄《ぬりげた》や、帯や、蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》や、刀の鞘《さや》や、茶托《ちゃたく》や塗り盆などの漆黒な斑点が、適当な位置に適当な輪郭をもって置かれる事によって画面のつりあいが取れるようになっている。多数の人物を排した構図ではそれら人物の黒い頭を結合する多角形が非常に重要なプロットになっているのである。
 頭髪は観者の注意を強くひきつける事によっておのずから人物の顔を生かす原動力になっている。もしこの漆黒の髪がなかったら浮世絵の顔の線などは無意味な線の断片の集合に堕落してしまって画面全体に対する存在理由の希薄なものになってしまいそうである。
 頭髪の輪郭をなしているいろいろの曲線がまた非常に重要な役目をしている。歌麿《うたまろ》以前の名家の絵をよくよく注意して見ると髷《まげ》や鬢《びん》の輪郭の曲線がたいていの場合に眉毛《まゆげ》と目の線に並行しあるいは対応している。櫛《くし》の輪郭もやはり同じ基調のヴェリエーションを示している。同じ線のリズムの余波は、あるいは衣服の襟《えり》に、あるいは器物の外郭線に反映している。たとえば歌麿の美人一代五十三次の「とつか」では、二人の女の髷の頂上の丸んだ線は、二人の襟《えり》と二つの団扇《うちわ》に反響して顕著なリズムを形成している。写楽《しゃらく》の女の変な目や眉も、これが髷の線の余波として見た時に奇怪な感じは薄らいでただ美しい節奏を感じ
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