させる。
顔の輪郭の線もまた重要な因子になっていて、これが最も多くの場合に袖の曲線に反響している。めいめいの画家の好む顔の線がそのままに袖《そで》のふくらみの線に再現されているのを見いだしてひとりでうなずかれる場合がかなりにある。この現象は古い時代のものほどに著しいような気がする。ただ写楽の人物の顔の輪郭だけは、よほど写実的に進歩した複雑さを示していると同時に、純粋な線の音楽としての美しさを傷つける恐れがあるのを、巧妙に救助しているのは彼の絵に現われる手や指の曲線である。これが顔の線と巧みに均衡を保ってそのためにかえって複雑な音楽的の美しさを高調している。懐月堂《かいげつどう》のふくれた顔の線は彼の人物の体躯《たいく》全体としての線や、衣服のふくらみの曲線となって至るところに分布されて豊かな美しさを見せている。
次に重要なものは襟《えり》の線である。多くの場合に数条の並行した、引き延ばされたS字形となって現われているこの線は、鬢《びん》の下端の線などと目立った対偶をしている。そして頭部の線の集団全体を載せる台のような役目をしていると同時に、全体の支柱となるからだの鉛直線に無理なく流れ込んでいる。それが下方に行って再び開いて裾《すそ》の線を作っている。
浮世絵の線が最も複雑に乱れている所、また線の曲折の最もはげしい所は着物の裾である。この一事もやはり春信《はるのぶ》以前の名匠の絵で最もよく代表されるように思う。この裾の複雑さによって絵のすわりがよくなり安定な感じを与える事はもちろんである。
裾の線は時に補景として描かれた幕のようなものや、樹枝や岩組みなどの線に反響している事があるが、そういうのはややもすれば画面を繊弱にする効果をもつものである。そういうわけで裾から上だけをかいた歌麿《うたまろ》の女などが、こせつかない上品な美しさを感じさせるのではあるまいか。写楽《しゃらく》のごとき敏感な線の音楽家が特に半身像を選んだのも偶然でないと思われる。
写楽以外の古い人の絵では、人間の手はたとえば扇や煙管《きせる》などと同等な、ほんの些細《ささい》な付加物として取り扱われているように見える場合が多い。師宣《もろのぶ》や祐信《すけのぶ》などの絵に往々故意に手指を隠しているような構図のあるのを私は全く偶然とは思わない。清長《きよなが》などもこの点に対するかなり明白な自覚をもっていたように思われる。このアペンディックスが邪魔にならないようにかなりな苦心を払っているような形跡が見える。少なくもこの点では清長のほうが歌麿よりもはるかにすぐれていると私は信じている。
これだけのわずかな要点を抽出して考えても歌麿《うたまろ》以前と以後の浮世絵人物画の区別はずいぶん顕著なものである。
たとえば豊国《とよくに》などでも、もう線の節奏が乱れ不必要な複雑さがさらにそれを破壊している。試みに豊国の酒樽《さかだる》を踏み台にして桜の枝につかまった女と、これによく似た春信《はるのぶ》の傘《かさ》をさして風に吹かれる女とを比較してみればすべてが明瞭《めいりょう》になりはしないか。後者において柳の枝までが顔や着物の線に合わせて音楽を奏しているのに、おそらく同じつもりでかいた前者の桜の枝はギクギクした雑音としか思われない。足袋《たび》をはいた足のいかつい線も打ちこわしである。しかし豊国などはその以後のものに比べればまだまだいいほうかもしれない。
北斎《ほくさい》の描いたという珍しい美人画がある。その襟《えり》がたぶん緋鹿《ひが》の子《こ》か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした縮れた線で描かれている。それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調《かいちょう》を奏してトレモロの響きをきくような感じを与えている。たとえば富岳三十六景の三島《みしま》を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状《きょしじょう》になっていなければならないかは、これに並行した木の枝や雲の頭や崖《がけ》を見れば合点される。そこにはやはり大きな基調の統一がある。
しかしなめらかな毛髪や顔や肉体の輪郭を基調とした線の音楽としてのほとんど唯一の形式は、やはり古い浮世絵の領域を踏み出す事は困難に思われる。後代の浮世絵の失敗の原因はこの領域を無理解に逸出した事にありはしないだろうか。
もしこの私の最後の考えが正しいとすれば、同じ事がたとえば彫刻や現代の西洋画にもある程度まで適用されはしないだろうか。これは少なくとも一顧に値するだけの問題にはなると思う。
私はこれらの問題をいつかもう少し立ち入って考えてみたいと思っ
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