ものは前者の類型であり、アメリカ映画のあるものは後者の仲間であると言ってもそうはなはだしい牽強付会《けんきょうふかい》ではあるまいと思われる。

     八

 連句の映画化ということについては、自分はこれまでに幾度もいろいろな場所で所見を述べたことがある。これについては同じような意見をもった人も少なくないようである。
 これに対立してまた、映画的な連句の新形式を予想することも可能である。これが、もしうまく行ったら、このほうはきっと現代の大衆に理解されやすく、模倣されやすく、従って享楽されやすいものになりそうである。
 昔漱石虚子によって試みられた「俳体詩」というものは、そういうものの無意識な萌芽のようなものであったかと思われる。しかしまだ芸術映画の理論などの問題にならない時代における最初の試みであったから、今から見るとそういう見地からは幼稚なものであったかもしれない。
 自分のここで映画的連句というのは一定のストーリーに基づいたシナリオ的な連句のつもりである。しかしシナリオ的な叙事詩とはだいぶちがうつもりである。一方では季題や去《さ》り嫌《きら》いや打ち越しなどに関する連句的制約をある程度まで導入して進行の沈滞を防ぎ楽章的な形式の斉整を保つと同時に、また映画の編集法連結法に関するいろいろの効果的様式を取り入れて一編の波瀾曲折を豊富にするという案である。
 なんだか夢のような話であるが、しかし百年たたないうちにそんな新詩形が東洋の日本で生まれ出て、それが西洋へ輸入され、高慢な西洋人がびっくりしてそうして争ってまねをはじめるということにならないとも限らない。

     九

 短歌には作者自身が自分の感情に陶酔して夢中になって詠んだように見えるのがかなり多い。しかし俳句ではたとえ形式の上からは自分の感情を直写しているようでも、そこではやはり、その自分の感情が花鳥風月と同様な一つの対象となっていて、それを別の観察者としての別の自分が観察し記録し描写しているように感ぜられるものが多い。こういう意味で、歌は宗教のようであり、俳句は哲学のようであると言ったような気もする。
 それとは関係はないかもしれないが自分は近ごろこんな空想を起こしてみたことがある。それは「歌人で気違いになったり自殺したりする人の数と、俳人で同様なことになる人の数とを比較してみたら、ことによると前者の
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