はいっこう感心してくれなかった。たとえば
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古井戸をのぞけばわっと鳴く蚊かな 杜昌《としょう》
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といったような句でも、当時の自分には、いくら説明したくても説明のできない幻想の泉となり、不可思議な神秘の世界をのぞく窓となるのであったが、父に言わせると「ただ、言っただけではないか」というのであった。
そのころより少し前に、父は陸軍の同僚数名と連句の会をやっていたことがある。その同僚中に一人宗匠格の人があってそれが指導者になっていたらしい。その宗匠が「扇開けば薄墨の月」という付け句をしたのを、さすが宗匠はうまいと言ってひどく感心していたことを思い出すのである。前句は何であったか忘れてしまった。
「赤い椿白い椿と落ちにけり」(碧梧桐)でも父の説に従えばなるほど「言うただけ」である。しかしこの句が若かった当時の自分の幻想の中に天に沖《ちゅう》する赤白の炎となってもえ上がったことも事実である。
「俳句は読者を共同作者として成立する」と言ったフランス人の言葉もまるでうそではないようである。どうしても発句だけでは、その評価は時と場所と人との函数として零から無限大まで変化しうる可能性をもっている。
しかし連句になると、もうそれほどの自由がきかなくなるのではないかと思われる。一重の網をのがれた魚でも三十六重の網には引っかかるのである。一枚の芸術写真に興味のない人でも映画はおもしろがるのである。
それだのに現代において俳句のほうに大衆性があって、連句のほうは至って影が薄いのはどういうわけであろう。
俳句の享楽は人の句を読むことよりもより多く自分で作ることにあるらしい。この点スキーやダンスに似ている。そうしてだれでもある程度まではできるから楽しみになる。しかし連句は読んでおもしろくても作るのはなかなかたいへんである。この点映画と同じである。そうしてしかも現在の大衆にはわかりにくい象徴的な前衛映画である。
現代の俳句界はジャーナリズムの力を借りることなしには大衆を包括することができないのに、今のジャーナリズムの露骨主義と連句の暗示芸術というものとは本来別世界の産物である。しかし、現状をはなれて抽象的に考えてみると連句的ジャーナリズムやジャーナリズム的連句といったようなものの可能性も全然ないとは考えられない。たとえばロシア映画のある
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