らん」とある。
「うずたかく」とはいかなる点をさすのか自分にはよくわからない。しかし、ともかくも連句というものの世界の広大無辺なことを思わせる一例であろう。少し変わった言い方をすると「俳諧の道は古代ギリシアの兵法にも通う」のである。これは一笑に値する。
六
昔、ラスキンが人から剽窃《ひょうせつ》呼ばわりをされたのに答えて、独創ということも、結局はありったけの古いものからうまい汁を吸って自分の栄養にしてからの仕事だというような意味のことを言った。
蕪村は「諸流を尽くしこれを一嚢中《いちのうちゅう》にたくわえ自らよくその物をえらび用にしたがっていだす」と言っているそうである。つまり同じことを言っているらしい。こんな例をあげればいくらでも出てくるであろう。あまりにわかり切ったことだからである。
しかし自分が平生不思議に思うことは、昔でも今でも俳人の世界ではいろいろの党派のようなものができて、そうして各流派流派の「主張」とか「精神」とかいうものを固執して他流を排斥しあるいは罵詈《ばり》するようなこともかなり多い。門外の風来人から見ると、どの流派にもみんなそれぞれのおもしろいところとおもしろくないところもあるように思われ、またいろいろの「主張」がいったい本質的にどこがちがうのかわからないような場合もかなりあるように思われる。
もっともそういえば仏教でも耶蘇《やそ》教でもフイフイ教でも同じになるかもしれないし、そうなればいったい何をおがんだらよいかわからなくなって困るかもしれない。
俳諧が宗教のように「おがむ」ことならば宗派があるのは当然かもしれない。しかし俳諧はまた一方では科学的な「認識」でありうる。そのためにはただ一面だけを固執する流派は少し困るかもしれない。
露月《ろげつ》の句に「薬には狸なんどもよかるべく」というのがある。狸も食ってみなければ味がわからない。食えば何かの薬にはなるかもしれないのである。
七
高等学校の一年から二年に進級した夏休みに初めて俳句というものに食いついて、夢中になって「新俳句」を読みふけった。天地万象がそれまでとはまるでちがった姿と意味をもって眼前に広がるような気がした。
蒸し暑い夕風の縁側で父を相手に宣教師のようなあつかましさをもって「新俳句」の勝手なページをあけては朗読の押し売りをしたが、父のほうで
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