ほうが比率の上で多いということになりはしないか」というのである。これは完全な資料によって統計的に調べてみなければなんとも言われないことである。しかし、自分の知っているきわめて狭い範囲の資料から見ると、どうも、そういう傾向が見えるようである。ある歌人の話では、比較的少数なその一派で気の狂った人が五六人はあるという。ある俳人の一門では長年の間に一人二人自殺した人はあったが、それはその人たちが長く俳句から遠ざかった後のことであったという。
要するにこれは全く自分の空想に過ぎないが、しかし自分の考えている歌と俳句との作者のその創作の瞬間における「自分」というものに対する態度の相違から考えると、そのような空想が万一事実として現われて来るとしても別に不思議はないような気がするのである。
こう言ったからといって、歌を作る人が皆ああであって俳句をやる人がことごとくこうであるといったような意味ではもちろんない。ただ統計的のことを言っているのである。
それからまた、もし以上の空想がいくぶん事実に近いということになったとしても、それは歌や俳句の力で人をどうするというわけではなくて、ただ歌をやる人と俳句をやる人とで本来の素質に多少の通有的相違があるということを暗示するに過ぎないであろう。
しかし、ともかくも、たとえば、三原山《みはらやま》投身者だけについてでも、もしわかるものならその中で俳句をやっていた人が何プロセントあったか調べてみたいような気がする。俳諧の目を通して自然と人生を見ている人が、容易なことでそんな絶望的気持ちになったり、またそんなに興奮したりしようとは、どうしても自分には思われないからである。
友人の話であるが、ある俳人で長い病の後に死が迫ったときに聖書と句集とを胸の上において死んで行った人があるそうである。「宗教だけでは、どうもさびしかったらしい」と友人が付け加えて話した。
[#地付き](昭和九年三月、俳句研究)
底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社
1993(平成5)年3月25日第1刷発行
1999(平成11)年11月20日第6刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店
1961(昭和36)年9月7日
入力:門田裕志
校正:浅原庸子
2006年1月23日作成
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