驍烽フでは決してない。これらはそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻《がいかく》を破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認めらるべき物の本情の相貌《そうぼう》をさしていうのである。これを認めるにはとらわれぬ心が必要である。たとえば仏教思想の表面的な姿にのみとらわれた凡庸の歌人は、花の散るのを見ては常套的《じょうとうてき》の無常を感じて平凡なる歌を詠《よ》んだに過ぎないであろうが、それは決してさびしおりではない。芭蕉のさびしおりは、もっと深いところに進入しているのである。たとえば、黙々相対して花を守る老翁の「心の色」にさびを感じ、秋風にからびた十団子《とおだんご》の「心の姿」にしおりを感じたのは畢竟《ひっきょう》曇らぬ自分自身の目で凡人以上の深さに観照を進めた結果おのずから感得したものである。このほかには言い現わす方法のない、ただ発句によってのみ現わしうるものをそのままに発句にしたのである。
寂びしおりを理想とするということは、おそらく芭蕉以前かなり遠い過去にさかのぼることができるであろうということは、連歌に関する心敬《しんぎょう》の言葉か
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