_なる想像を許さるれば、古《いにしえ》の連歌俳諧に遊んだ人々には、誹諧の声だけは聞こえていてもその正体はつかめなかった。さればこそ誹諧は栗《くり》の本《もと》を迷い出て談林の林をさまよい帰するところを知らなかった。芭蕉も貞徳《ていとく》の涎《よだれ》をなむるにあきたらず一度はこの林に分け入ってこのなぞの正体を捜して歩いた。そうして枯れ枝から古池へと自然のふところに物の本情をもとめた結果、不易なる真の本体は潜在的なるものであってこれを表現すべき唯一のものは流行する象徴による暗示の芸術であるということを悟ったかのように見える。かくして得られた人間世界の本体はあわれであると同時に滑稽であった。この哀れとおかしみとはもはや物象に対する自我の主観の感情ではなくて、認識された物の本情の風姿であり容貌《ようぼう》である。換言すれば事物に投射された潜在的国民思想の影像である。思うにかのチェホフやチャプリンの泣き笑いといえどもこの点ではおそらく同様であろう。このようにして和歌の優美幽玄も誹諧《はいかい》の滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》も一つの真実の中に合流してそこに始めて誹諧の真義が明らかにされたの
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