る。連俳の中の恋の句にはほとんど川柳と紙一重の区別も認め難いものがあり、また川柳の上乗なるものには、やはりあわれがあり風雅があることは争われない。しかし川柳の下等なものになると、表面上は機微な客観的真実の認識と描写があるようでも、句の背後からそれを剔出《てきしゅつ》して誇張し見せびらかす作者の主観が濃厚に浮かび上がって見えるのをいかんともし難い、これは風雅の誠のせめ方が足りないで途中で止まっているためである。もう一歩突きつめればすべての滑稽はあわれであり、さびであり、しおりでなければならない。
 ここでわれわれは俳諧という言葉の起原に関する古人の論議を思い起こす。誹諧《はいかい》また俳諧は滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》の意味だと言われていても、その滑稽が何物であるかがなかなかわかりにくい。古今集の誹諧哥《はいかいか》が何ゆえに誹諧であるか、誹諧の連歌が正常の連歌とどう違うか。格式に拘泥《こうでい》しない自由な行き方の誹諧であるのか、機知|頓才《とんさい》を弄《ろう》するのが滑稽であるのか、あるいは有心無心の無心がそうであるのか、なかなか容易には捕捉し難いように見える。しかしもし大
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