チて始めて良いものができるという事は、前に言った「発句は読者を共同作者とする」という事と密接につながっていることはもちろんである。俳句を理解するかしないかということは結局、その句の脇《わき》の世界を持ち合わせているかいないかによるのである。
 共同作者らの唱和応答の間に、消極的には謙譲礼節があり、積極的には相互扶助の美徳が現われないと、一句一句の興味はあっても一巻の妙趣は失われる。この事を考慮に加えずして連俳を評し味わうことは不可能である。真正面から受ける「有心」の付け句がだいじであれば軽い「会釈」や「にげ句」はさらに必要である。前者は初心にできても、後者は老巧なものでなければできない重い役割であろう。
 鑑賞の対象として見た連俳のおもしろみの一つは一巻の中に現われたその時代世相の反映である。蕉門の付け合いには「時宜」ということを尊んだらしい。その当時の環境に自然な流行の姿をえらんだ句の点綴《てんてつ》さるることを望んだのである。また作者自身の境界にない句を戒められたようである。しかしこういうことがないまでも、連句は時代の空気を呼吸する種々な作者の種々な世界の複合体である以上、その作物
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