フ上には個人の作品よりもずっと濃厚な時代の影の映るのは当然のことである。そういう意味から言って現代の俳諧に元禄時代《げんろくじだい》のような句ばかり作ろうとするのは愚かなことであろう。
連句の変化を豊富にし、抑揚を自在にし、序破急の構成を可能ならしむるために神祇《じんぎ》釈教恋無常が適当に配布される。そうして「雑《ぞう》の句」が季題の句と同等もしくは以上に活躍する。季題の句が弦楽器であれば、雑の句はいろいろの管楽器ないし打楽器のようなものである。連俳を交響楽たらしむるのは実に雑の句の活動によるのである。その中でも古来最も重要なものとされているのは恋の句であり、これがなければ一巻をなさぬとされている。
芭蕉の俳諧に現われた恋の句については小宮豊隆《こみやとよたか》君が本講座において周到な研究を発表されている。その説にもあるように俳諧に現われている恋は濃艶《のうえん》痛切であってもその底にあるものは恋のあわれであり、さびしおりである。すなわち恋の風雅であり、風雅の一相としての恋愛であり性欲である。恋の中に浸りながら恋を静観しうる心の余裕があるものでなければ俳諧の恋の句を作る事はできない
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