轤ク、近来わが国諸学者の研究もあるように、七五の音数律はわが国語の性質と必然的に結びついたもので人為的な理屈の勝手にはならないものである。この基礎的な科学的事実を無視した奇形の俳句は、放逸であっても自由ではない。俳諧の流るるごとき自由はむしろその二千年来の惰性と運動量をもつところの詩形自身の響きの中にのみ可能である。俳諧は謡《うた》いものなりというはこの事である。一知半解の西洋人が芭蕉をオーレリアスやエピクテータスにたとえたりする誤謬《ごびゅう》の出発点の一つはここにもある。同じ誤謬に立脚した変態の俳句などは、自分の皮膚の黄色いことを忘れた日本人のむだな訓練によってゆがめられた心にのみ感興を呼び起こすであろう。
この短詩形の中にはいかなるものが盛られるか。それはもちろん風雅の心をもって臨んだ七情万景であり、乾坤《けんこん》の変であるが、しかもそれは不易にして流行のただ中を得たものであり、虚実の境に出入し逍遙《しょうよう》するものであろうとするのが蕉門正風のねらいどころである。
不易流行や虚実の弁については古往今来諸家によって説き尽くされたことであって、今ここに敷衍《ふえん》すべき余地もないのであるが、要するにこれは俳諧には限らずあらゆるわが国の表現芸術に共通な指導原理であって、芸と学との間に分水嶺《ぶんすいれい》を画するものである。最も卑近な言葉をもって言い現わせば、恒久なる時空の世界をその具体的なる一断面を捕えて表現せよ、ということである。本体を表現するに現象をもってせよ、潜在的なる容器に顕在的なる物象を盛れというのである。本情といい風情《ふぜい》というもまた同じことである。これはおそらくひとわたりの教えとしては修辞学の初歩においても説かれうることであろうが、それを実際にわが物として体得するためには芭蕉一代の粉骨の修業を要したのである。
流行の姿を備えるためには少なくも時と空間いずれか、あるいは両方の決定が必要である。季題の設定はこの必要に応ずるものである。季題のない発句はまれにはあるとしてもそれは除外例である。二条良基《にじょうよしもと》は連歌の句々の推移のありさまを浮世の盛衰にたとえ、また四季の運行に比べている。これは気候変化の諸相のきわめて複雑多様な日本の国土にあって、この変化に対する敏感性を養われて来た日本人にのみ言われる言葉である。それで連歌以来季
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