閧ェ制定されてそれが俳諧に墨守されて来た事は決して偶然ではないのである。たとえばフランス人ジュリアン・ヴォカンスが大戦の塹壕生活《ざんごうせいかつ》を歌った、七、七、七シラブルの「ハイカイ」には全く季題がないので、どうひいき目に見てもわれわれには俳諧とは思われないのである。(改造社俳句講座第七巻、後藤《ごとう》氏「フランスの俳諧詩」参照)
季題の中でも天文や時候に関するものはとにかく、地理や人事、動物、植物に関するものは、時を決定すると同時にまた空間を暗示的に決定する役目をつとめる。少なくもそれを決定すべき潜在能をもっている。それで俳句の作者はこれら季題の一つを提供するだけで、共同作者たる読者の連想の網目の一つの結び目を捕えることになる。しかしこの結び目に連絡する糸の数は無限にたくさんある。そのうちで特にある一つの糸を力強く振動させるためには、もう一つの結び目をつかまえて来て、二つの結び目の間に張られた弦線を弾じなければならない。すなわち「不易」なる網目の一断面を摘出してそこに「流行」の相を示さなければならない。これを弾ずる原動力は句の「はたらき」であり「勢い」でなければならない。
発句は物を取り合わすればできる。それをよく取り合わせるのが上手《じょうず》というものである。しかしただむやみに二つも三つも取り集めてできるというのではない。黄金《こがね》を打ち延べたように作るのだということを芭蕉が教えたのは、やはり上記の方法をさして言ったものと思われる。
近ごろ映画芸術の理論で言うところのモンタージュはやはり取り合わせの芸術である。二つのものを衝《つ》き合わせることによって、二つのおのおのとはちがった全く別ないわゆる陪音あるいは結合音ともいうべきものを発生する。これが映画の要訣《ようけつ》であると同時にまた俳諧の要訣でなければならない。
取り合わせる二つのものの選択の方針がいろいろある。それは二つのものを連結する糸が常識的論理的な意識の上層を通過しているか、あるいは古典の中のある插話《そうわ》で結ばれているか、あるいはまた、潜在意識の暗やみの中でつながっているかによって取り合わせの結果は全く別なものとなる。蕉門俳諧の方法の特徴は全くこの潜在的連想の糸によって物を取り合わせるというところにある。幽玄も、余情も、さびも、しおりも、細みもこの弦線の微妙な振動によって発
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