芸術」の中に述べてある私見を参照していただきたい。また連俳の心理と夢の心理の比較や、連俳の音楽との比較や、月花の定座の意義等に関する著者の私見は雑誌「渋柿」の昭和六年三月以降に連載した拙稿を参照されたい。
 古人の俳書から借りた言葉を一々「  」にするのはあまりにわずらわしいから省略した場合が多い。
 芭蕉の人と俳諧に関しては小宮豊隆《こみやとよたか》君との雑談の間に教わり啓発さるるところがはなはだ多かった。無意識の間に同君の考えをそのまま述べているところがあるかもしれない。また連俳に関しては松根東洋城《まつねとうようじょう》君と付け合わせの練習の間に教えらるるところが少なくなかった。山田孝雄《やまだよしお》氏の「連歌及連歌史《れんがおよびれんがし》」(岩波日本文学講座)[#「岩波日本」と「文学講座」が1行内で2行に分けられている]からは始めて連歌の概念を授けられ、太田水穂《おおたみずほ》氏の「芭蕉俳諧の根本問題」からは多くの示唆を得た。幸田露伴《こうだろはん》氏の七部集諸抄や、阿部《あべ》小宮その他諸学者共著の芭蕉俳諧研究のシリーズも有益であった。
 外国人のものでは下記のものを参照した。
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〔B. H. Chamberlain : "Basho_ and the Japanese Epigram." Trans. Asiatic Soc. Jap. Reprint Vol.1 (1925), 91.〕
〔Paul−Louis Couchoud : Sages et poe`tes d'Asie. Calmann−Le'vy.〕
〔Rene' Maublanc : "Le Hai:kai: franc,ais." Le Pampre, No. 10/11 (1923).〕
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西洋人には結局俳諧はわからない。ポンドと池との実用的効果はほぼ同じでも詩的象徴としての内容は全然別物である。「秋風」でも西洋で秋季に吹く風とは気象学的にもちがう。その上に「てには」というものは翻訳できないものである。しかし外人の俳句観にもたしかに参考になることはある。翻訳と原句と比べてみることによって、始めて俳句というものの本質がわかるような気がするのである。いった
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