い。新しき風雅の道を開拓してスポーツやダンスの中にも新しき意味におけるさびしおりを見いだすのが未来の俳人の使命でなければなるまいと思う。
現代のいわゆる俳壇には事実上ただ発句があるばかりで連句はほとんどない。子規の一蹴《いっしゅう》によってこの固有芸術は影を消してしまったのである。しかし歴史的に見ても連俳あっての発句である。修業の上から言っても、連俳の自由な天地に遊んだ後にその獲物を発句に凝結させる人と、始めから十七字の繩張《なわば》りの中に跼蹐《きょくせき》してもがいている人とでは比較にならない修辞上の幅員の差を示すであろう。鑑賞するほうの側から見ても連俳の妙味の複雑さは発句のそれと次序《オーダー》を異にする。発句がただ一枚の写真であれば連俳は一巻の映画である。実際、最も新しくして最も総合的な芸術としての映画芸術が、だんだんに、日本固有の、しかも現代日本でほとんど問題にもされない連俳芸術に接近する傾向を示すのは興味の深い現象であると言わなければならない。
ついでながら四十八字の組み合わせは有限であるから俳句は今に尽きるであろうという説があるが、これは数の大きさの次序《オーダー》というものの観念のない人の説である。俳句の尽きる前におそらく日本語が変わってしまうではないかと思われるが、しかしこの問題はなかなかそう簡単な目の子算で決定されるような生やさしいものではないのである。杞人《きひと》の憂《うれ》いとはちょうどこういう取り越し苦労をさしていうものであろうと思われる。
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(付記) このわずかな紙面の上に表題のごとき重大な問題を取り扱おうという大胆な所業はおそらく自分のごとき無学なる門外漢の好事者にのみ許された特権であろう。しかしあまりにも無作法にこの特権を濫用したこの蕪雑《ぶざつ》なる一編の放言に対しては読者の寛容を祈る次第である。はじめは、いくらか系統的な叙述の形式を取ろうと企てたが、それは第一困難であるのみならず、その結果はただの目録のようなものになってしまう恐れがあるので、むしろ自由に思いのままに筆を走らせることにした。従って触れるべき問題にして触れ得なかったものも少なくない。これらについては他日雑誌「渋柿」の紙上でおいおいに所見を述べて批評を仰ぎたいと思っている。
映画と連俳との比較については岩波版日本文学講座中の特殊項目「映画
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