鎖だけである。しかし外界は不定である。一夜寝て起きたときは、もうその室が自分を封じ込んだまま世界のいずこの果てまで行っているか、それを自分の能力で判断する手段は一つもないのである。
こんなことを考えてみてもやっぱり「心の窓」はいつでもできるだけ数をたくさんに、そうしてできるだけ広く明けておきたいものだと思う。
八
劇場などで座席を選ぶ場合に、一列の椅子《いす》のどちらか一方の端の席がいいという人がある。自分も実はその一人である。それは、出たい時にいつでも楽に出られるという便宜があるためである。しかしその便宜を実際に利用することはむしろまれで、多くの場合には、ただその自由の意識を享楽するだけである。
だれであったか忘れたが昔のギリシアの哲学者の一人は集会所のベンチの片端に席を占める癖があった。人がその理由を尋ねたら「せめて片側だけでも自由がほしい」と答えたそうである。昔も今もこうしたわがままなエゴイストの心理は同様だと見える。
しかし、一方ではまた、反対に両側に人がいないとさびしく物足りないという人もかなりあるようである。
群集を好む動物があり一方にはまた孤独を楽しむ動物があるかと思うと、また一方ではある時期には群集を選ぶが他の時期、特に営巣生殖の時期には群れを離れて自分だけの領地《テリトリー》を占領割拠し、それを結婚の予備行為とした上で歌を歌って領域占領のプロパガンダを叫び、そうして花嫁を呼び迎える鳥類もある。
エゴイストが自由を欲するのは、やはり自分の領域《テリトリー》を確保したいからである。そうしてそれは、少なくも学者や芸術家の場合では、やはり精神的の「巣」を営み、精神的の「子供」を生みたいという本能の命令によって自然にそうなるのではないかと思う。そうだとすれば学者や芸術家のわがままはやはり一種の自然現象であって、道徳的批判などを超越したものであるかもしれない。もしもそうだとしたら、このわがままもやはり進化論的の見地から重要な意義をもって来る。そうしてそれは人類の保存と人間社会の円滑な運転に必須《ひっす》な機巧の一部をなすものかもしれない。
こういうふうに考えて来ると世事の交渉を回避する学者や、義理の拘束から逃走する芸術家を営巣繁殖期に入った鳥の類だと思って、いくぶんの寛恕《かんじょ》をもってこれに臨むということもできるかもしれない。
九
東京市電気局の争議で電車が一時は全部止まるかと思ったら、臨時従業員の手でどうにか運転を続けていた。この予期しなかった出来事は、見方によっては、東京市民一般に関するいろいろな根本問題を研究するために必要あるいは有益な資料を提供する一つの大がかりなエキスペリメントであったとも見られなくはない。すなわち、実証的科学の実験と同じ意味において一つの実験であったと考えることができるとすれば、われわれはこの大規模で高価な実験をむだに終わらせないように努力しなければならない。それには、この実験によって生じたいろいろの効果を正確に観察し、それを忠実に記録し、そうしてその結果を分析し帰納し、それから、もしできるなら、市民交通を支配する方則のようなものを抽出し、それから演繹《えんえき》される各種の命題を将来の市電経営法の改善に応用したいように思う。
市電争議の原因はなかなか複雑で到底科学者などにはわからないような事がらがいろいろ裏面に伏在しているには相違ないであろうが、しかしたくさんな原因の一つとしては、市電が経済的に不利な経営法を行ないきたったという事実もあるであろう、そうしてそのまた理由の一つとしては電車の運転のスケジュールが科学的研究にその基礎を置いてない間に合わせなものだということもあげられはしないかと想像されるのである。
それはとにかく、争議中の電車に乗って往来している間に自分の気づいた現象の一つは、各線路における各時刻の乗客数の異常である。少なくも争議開始後二三日は全線いったいに乗客が少ないではないかと思われた。これは市民の出足がなんとない不安のためにいくぶん止められたためかと想像された。しかしまた、乗り換え切符を出さなくなったために乗客の選ぶコースが平常と変わり、その結果としていつもは混雑するある時刻のある線路が異常に閑散になったというような現象もあるらしく思われた。この異常時の各線路の乗客数の調査をしたら市電将来の経営について非常にいい参考資料が得られるであろうと思ったが、しかし電気局ではその当時それどころの騒ぎではなかったであろう。
背広服の運転手や車掌はなんとなく電車内の空気をなごやかにする。いつもは生きた機械か、別世界から出張した人間のように思われるこれらの従業員が、こうして見るとやはり乗客の自分らと同じ人種に見えるから妙である。
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