急にかゆくなるように感じた。
 この猫が書斎の前の縁側にすわってかゆがって身もだえをしていられると、どうにも仕事が手につかない。文字通りの意味でのシンパシーまたミットライドとはこんなのを言うのかもしれない。
 三つの「かゆい話」のぶつかったのは全く偶然のコインシデンスである。しかし、それを三つ結びつけて感じるのは必ずしも偶然ではないであろう。

       四

 八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿《しんじゅく》から神田《かんだ》両国《りょうごく》行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだいつものように点燈していたにもかかわらず、町の暗さが人を圧迫するように思われた。いつもは地上百尺の上に退却している闇《やみ》の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。
 一週間も田舎《いなか》へ行っていたあとで、夜の上野《うえの》駅へ着いて広小路《ひろこうじ》へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。
 札幌《さっぽろ》から出て来た友人は、上京した第一日中は東京が異常に立派に美しく見えるという。翌日はもう「いつもの東京」になるらしい。
 けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。

       五

 ある地下食堂で昼食を食っていると、向こう隣の食卓に腰をおろした四十男がある。麻服の上着なしで、五分刈り頭にひげのない丸顔にはおよそ屈託や気取りの影といったものがない。※[#4分の1、1−9−19]リットルのビールを二杯注文して第一杯はただひと息、第二杯は三口か四口に飲んでしまって、それからお皿《さら》に山盛りのチキンライスか何かをペロペロと食ってしまった、と思うともう楊枝《ようじ》をくわえてせわしなく出て行った。
 なんだか非常にうらやましい気がした。何がうらやましいか、そのときにはよくわからなかった。たぶん、飲んでも食ってもふくれない「胃」がうらやましかったのではないかと思われる。
 食うものばかりではない、見るもの聞くものまでがことごとく腹にたまって不消化を起こす自分などのような胃の弱い人間には、この男のような屈託のない顔は一生勉強してもとてもできそうもない。

       六

 お出額《でこ》で鼻が小さくて目じりが下がって、というのは醜婦の棚《たな》おろしのように聞こえる。しかし、これは現代美人の一つの型の描写の少なくも一部分をなすものである。
 おでこは心の広さを現わし、小さく格好よく引きしまった鼻はインテリジェンスとデリカシーの表象であり、下がった目じりは慈愛と温情の示現である、という場合もあるであろう。しかしまたこれと反対の場合のあることももちろんであろう。
 顔の美醜は到底文字では現わせないものらしい。これを現わす解析法も幾何学もまだ発見されていない。まず現代でいちばん実用的な描写法としては世界的に知れ渡った映画スターなどのいろいろなタイプを借りて記載するのが近道であろうかと思われる。
 国体や国民性の美醜にも言葉や教科書の文句では現わし難いものがある。それを学校生徒に教える唯一の道は先生自身がそのモデルでありタイプであることである。
 小学校の先生になるのも容易なことではない。

       七

 最新の巨大な汽船の客室にはその設備に装飾にあらゆる善美を尽くしたものがあるらしい。外国の絵入り雑誌などによくそれの三色写真などがある。そういう写真をよくよく見ていると、美しいには実に美しいが、何かしら一つ肝心なものが欠けているような気がする。それが欠けているためにこの美しい部屋《へや》が自分をいっこうに引きつけないばかりか、なんとなく憂鬱《ゆううつ》に思われてしかたがない。何が欠けているかと思ってよく考えてみると、「窓」というものが一つもない。
 窓のない部屋はどんなに美しくてもそれは死刑囚の独房のような気がする。こういう室に一日を過ごすのは想像しただけでも窒息しそうな気がする。これに比べたら、たとえどんなあばら家でも、大空が見え、広野が見える室のほうが少なくも自由に呼吸する事だけはできるような気がする。
 汽船でも汽車でも飛行機でも、一度乗ったが最後途中でおりたくなっても自分の自由にはおりられない。この意味ではこれらは皆一種の囚獄である。しかし窓から外界が見える限り外の世界と自分との関係だけはだいたいにわかる、もしくはわかったつもりでいられる。これに反して窓のない部屋にいるときには外界と自分とのつながりはただ記憶というたよりない連
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