昔北欧を旅行したとき、たしかヘルシングフォルスの電車の運転手が背広で、しかも切符切りの車掌などは一人もいず、乗客は勝手に上がり口の箱の中へかねて買い置きの白銅製の切符を投げ入れていたように記憶している。こんなのんびりした国もあるのかと思ったことであった。
 今度の素人《しろうと》従業員は素人だけにいろいろのエピソードをこしらえた。室町《むろまち》から東京駅行きのバスに乗ったら、いつものように呉服橋《ごふくばし》を渡らずに堀《ほり》ばたに沿うて東京駅東口のほうへぶらりぶらりと運転して行く。臨時運転だからコースが変わったのかと思っていると、運転手が突然「オーイ、オイ、冗談じゃあないよ」とひとり言を言ってぐるりと車を引き返して呉服橋のほうへあともどりした。男車掌は知らん顔をして切符の数を読んでいた。乗客の一人は吹き出して笑った。
 あるバスの女車掌は大学赤門《だいがくあかもん》前で、「ダイガクセキモンマエ」と叫んでいたそうである。
 ある電車運転手は途中で停車して共同便所へ一時雲隠れしたそうである。こうなると運転手にも人間味が出て来るから妙である。
 矢来下《やらいした》行き電車に乗って、理研前《りけんまえ》で止めてもらおうとしたが、後部入り口の車掌が切符切りに忙しくてなかなか信号ベルのひもを引いてくれない。やっと一度引くには引いたが、運転手は聞こえないと見えて停車しないでとうとう通り過ぎて行った。早く止めてくれと言っても車掌は「信号したけれども止めないです」と言って至極涼しい顔をしていた。これも誠にのんびりした話である。
 争議が解決した後も、いっその事思い切って従業員の制服を全廃して思い思いの背広服ないし和服着流しにする事を電気局に建言したらどうかと思ってみたのであった。

       十

 このごろ、熱帯魚を売る店先を通るときはたいていいつでも五分や十分は立ち止まって種々な種類の魚の動作を観察する癖がついた。種類による個性の差別がだんだんにわかって来るのがなかなかおもしろい。
 ラスボラ・ヘテロモルファという魚は、時には活発に運動しているが、また時によると二三十尾の群れが水槽《すいそう》の一部に集まったままじっとして動かないでいることがある。それが、どうもだいたい同じ方向を向いて静止していることが多いような気がする。もしそうだとすると何がこの魚をこうさせるかが問題になる。
 エンゼルフィッシの子が数尾同じ槽にいるのを見ていると、一尾が徐々に上昇し始めるとほとんど同時に他の仲間も上昇を始める。しばらくしてどれかが下降し始めると他のものもまた相前後して下降する。お互いに合図するのかまねをするのか、それとも外界の物理的化学的条件に応じて機械的に反応しているのか、どちらだか自分にはわからない。ただ同じ魚の群れが共同的の動作をするという事実がおもしろい。
 大きな水槽に性情を異にするいろいろな種類の魚を雑居させたのがある。そこではもはやこうした行動の一致は望まれないと見えて右往左往の混乱が永久に繰り返されている。これでは魚が疲れてしまいはせぬかと思って気になるようである。
 交通があまりに発達して、世界が一つの水槽のようになってしまうと、その中に動いている国々も騒がしくなるはずである。

       十一

 毎週一回|新宿《しんじゅく》駅で東北沢《ひがしきたざわ》行きの往復切符を買う。すると、改札口で切符切りの駅員がきっと特別念入りにその切符を検査するようである。しかし片道切符のときはろくに注意しないでさっさと鋏《はさみ》を入れるように見える。どういうわけか自分にはわからない。それはとにかく、改札係は人間であるがその役目はほとんど機械的なものである。一定の刺激に反応してそれに相当する一定の動作を繰り返すだけである。それで、小田急線《おだきゅうせん》の往復切符は一種特別な比較的|稀有《けう》な刺激としてそれに応ずる特別の動作を誘発するに過ぎないかもしれない。こういう考え方はしかし決して改札の駅員を侮辱するものではないので、すべての人間はある度まではある場合のある環境のもとにはやはり一種の自動人形《オートマトン》としてしか働いていないからである。すべてのいわゆるプロフェッションはそうした環境をわれわれに供給する。そうしてそれがいちばん安全な環境でもあるであろう。
 ものを研究したり、創作したりしようとするには自動人形では間に合わない。それだけにこうした仕事にはいつでも危険が伴なうのであろう。

       十二

 もう十年も前から毎週一回|新宿《しんじゅく》駅で買うことになっている切符が、ある年のある日突然いつもとはちがう手ざわりのするのに気がついた。気がついて見ると、それは切符の台紙のボール紙の厚みが著しく薄くなっていたのであ
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