る。そうして、それから後は現在までずっと薄くなったままで継続しているような気がするのであるが、事実はどうだかたしかでない。
とにかく、その突然の変化の起こったのは浜口《はまぐち》内閣の緊縮政策の高潮に達したころであったので、この政策と切符の紙質の変化とになんらかの連関がありはしないかと考えてみたことがあった。
事実はとにかく、このような連関は鉄道省とそれを統率する内閣とが一つの有機体である以上可能なことである。
いつか自分の手指の爪《つめ》の発育が目立って悪くなり不整になって、たとえば左の無名指の爪が矢筈形《やはずがた》に延びたりするので、どうもおかしいと思っていたら、そのころから胃潰瘍《いかいよう》にかかって絶えず軽微な内出血があるのを少しも知らずにいたのであった。
有機体ではいかなる末梢《まっしょう》といえども中枢機関と有機的に連関しているので、末梢の変化から根原の変化を推測することのできる場合も少なくないはずである。末梢的と言ってもうっかり見過ごせない。
有機体の中にその有機系と全然無関係な細胞組織が何かの間違いでできることがある。やっかいな癌腫《がんしゅ》はそういう反逆者の群れでできるものらしい。有機系とはなんの交渉もないものが繁殖し始めるとその有機系の調和が破壊され、その活力が阻害され結局死滅する、それと同時にその死滅を促成した反逆者の一群も死滅することは当然である。
国家という有機体にも時々癌腫が発生する。ひどくなると国家を殺すが、多くの場合に、その癌細胞自身も結局共倒れになって死んでしまうようである。
癌のやっかいなことは外科手術で切り取ってもすぐお代わりが芽を出す。また手術をすると生命がなくなることもある。
癌の発生する原因がまだよくわからないように国家の癌の発生する真因がまだよく突きとめられていない。それがわからなくては根本的な治療や予防はできるはずがない。癌研究所と同様に国家癌の科学的研究所の設立も今日の国家の急務であるかもしれないのである。
十三
九月中旬になって東京の街路を飾るプラタヌスの並み木が何か思い出しでもしたように新しい芽を出している。老衰して黒っぽくなりその上に煤煙《ばいえん》によごれた古葉のかたまり合った樹冠の中から、浅緑色の新生の灯《ひ》が点々としてともっているのである。よく見ると、場所によってこの新芽のよく出そろったところもあり、また別の町ではあまり目立たないところもある。さらにまた、同じ場所でも、一本一本見て行くと木によって多少ずつの相違があって、ある木は一面に浅緑でおおわれているのに、すぐ近くの他の木ではほんの少ししか新芽が見えないといったようなふうである。
いつであったか、街燈の照明の影響でこの木の黄葉落葉に遅速があるということが、どこかの通俗科学雑誌の紙上で問題になったことがあるように記憶するが、しかし現在の新芽の場合では、街燈との関係はどうもあまりはっきりしないようである。
本郷《ほんごう》大学正門内の並み木の銀杏《いちょう》の黄葉し落葉するのにも著しい遅速がある。先年友人M君が詳しく各樹の遅速を調べて記録したことがあって、その結果を見せてもらったことがある。それが、日照とか夜間放熱とか気温とか風当たりとかそういう単なる気象的条件の差異によってこれらの遅速を説明しようと思っても、なかなか簡単には説明されそうもないような結果であった。また根の周囲の土壌《どじょう》の質や水分供給の差異によるとも思われなかった。それからまた、関東震災のときに焼けたのと焼けなかったのとの区別によるのではないかとの説もあったが、なかなかそれだけのことでは決定されそうにない。そういう外部の物理的化学的条件だけではなくて、もっと大切な各樹個体に内在する条件があるのではないかと素人《しろうと》考えにも想像されるのであった。もちろん生物学をよく知らない自分にはほんとうのことはわからない。
この銀杏でもプラタヌスでも、やはり一種の生物であってみれば、ただの無機物のようにそうそう簡単でないのはむしろ当然のことであろう。
それはとにかく、こんなちょっとした例を見ただけでも、環境の作用だけで「人間」を一色にしようとする努力が無効なものである、という、その平凡な事実の奥底には、普通政治家・教育家・宗教家たちの考えているとはかなり違った、自然科学的な問題が伏在していることが想像されるようである。
[#地から3字上げ](昭和九年十一月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※本作品中には、身体
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