拡散したとすれば、その系統あるいは同色の言語要素の密度は多少同心円形分布の形跡を生じてもよいわけである。たとえこの要素の等密度線がどのように変形しようとも、少なくも、その密度の傾度最大方向のトラジェクトリーを追跡して行けば、ついにはその源に到着、あるいは少なくも近づく事ができそうである。
 ただ第一に問題となるのは、いかなる標準によってそのいわゆる同系要素なるものを識別しうるかという事である。これはもちろん難問題である。しかし幸いにして従来の言語学者の努力の結果は、この方法を漸進近似法(Method of successive approximation)によって進めんとする際にまず試みとして置かるべき第一近似の資料を豊富に供給してくれるのである。
 この識別法を仮定すれば、次は密度の統計的計算が問題になる。前記の理想的の場合の「密度」が直接いかなる数に相応するかはこれもむつかしい問題であるが、少なくもその一つの計量《メジュアー》として、それそれの地方の国語中における、問題の語系要素の百分率を取ってみる事も一つの穏当な試験的方法であろうと考えられる。そしてこれは必ずしも不可能な事とは考えられない。
 もちろん語根は言語のすべてではない、語辞構成や措辞法もまた言語の要素として重要である。これらをいかにして「分子」に分析するかはかなりむつかしい問題ではあるが、少なくも原理の上からはそれも不可能な事とは思われないのである。
 以上のような漠然《ばくぜん》たる想像――もちろんこれは今のところただ一つの想像に過ぎない――に刺激されて、まず手近なマライ語の語彙《ごい》に目を通す事を試みた。そうしてこの国語と邦語との類似のはなはだしいのに驚かされた。自然現象や動植物の名称などはそれほどでもないが、形容詞と動詞において特に著しい類似のあるらしい事を感じた。おもしろい事には、今日わが国一般に行なわれているきわめて卑俗な言語や、日本各地の方言と肖似する現行マライ語も少なくない。また試みに古事記をひもといて古い日本語を当たってみると、たとえばその中の歌詞――最も古い語の保存されているらしい――に現われたむつかしい語彙などが、かなりにもっともらしく、都合よくマライ語で説明され、また古代神名や人名などにも、少なくも見かけの上でもっともらしく付会されるものが存外多いのに驚かされた。滑稽《こっけい》な例をあげれば稗田阿礼《ひえだのあれ》の名が「博覧強記の人」の意味にこじつけられたりした。また他の方面で最も自分の周囲の人々を愉快がらせたのは、かの大江山《おおえやま》の「酒顛童子《しゅてんどうじ》」が「恐ろしき悪魔」と訳されたりするのであった。これほど関係の深いようにわれわれ素人《しろうと》にさえ思われるものが、何ゆえに今日まで言語学者によって高唱されなかったかが不思議であるように思われた。現にある学者の書には、明らかにマライと邦語の関係はたいしたものでないと書いてある。一方朝鮮語やウラルアルタイ、チャムモンクメール、オセアニック等の語系との関係についての論文は往々われわれの目にも入ったが、正面からマライとの関係を論じて、そうしてそれが一般学界ひいては世人の注意をひくほどに至ったもののあった事は寡聞にしてまだ知らなかったのである。
 朝鮮語との語彙《ごい》の近似は、何人もいだくべき予期に反して案外に少ないもののようである。ウラルアルタイックとも、少なくも語彙の点ではそれほどでない事も論ぜられているようである。しかしマライはこの点についてはおそらく前二者に劣る事はなさそうに思われたのである。
 その後に Van Hinloopen Labberton が一九二五年のアジア協会学報に載せた論文を読んで、自分の素人流《しろうとりゅう》の対比がそれほど乱暴なものでなかった事を知ると同時に、外国の学者の間ではこれがかなり前から問題になっている事を知るに至った。また、Whymant という人の「日本語及び日本人の南洋起原説」というのにも出くわした。そしてその中で日本人というものがはなはだしく低能な幼稚なものとして取り扱われているのに不快を感じると同時にその説がそれほどの名論とも思われないのを奇妙に思ったりした。
 マライを手始めに、アイヌや、蒙古《もうこ》、シナ、台湾《たいわん》などと当たってみると、もちろんかなり関係のありそうな形跡は見えるが常識的に予期されるほどに密接とも思われないのをかえって不思議に思った。それから、ビルマや、タミール、シンガリースなどから、漸次西に向かって、ペルシア、アラビア、トルコ、エジプトへんをあさってみると、やはりいくらかの関係らしいものが認められると思った。ハンガリーやセルボクロアチアンからフィンランドまで行ってみても同様である。
 しかし
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