ス一方たとえばベンガリの 〔gala_〕 などを通してかなり東洋にも広がっているのかもしれないと想像される。もっと空想をたくましくすれば邦語のゴロなどというのも少しは怪しくなるくらいである。(鳥のアラビア語 tair. [#「t」は下点付き、182−6]咽喉《のど》のシナ語 hou lung)。
 こういう種類のではたとえばたっつけ袴《ばかま》のカルサンというのがインドへんから来ているかと思うと、イタリアにも類似の名が出て来たりするのである。(タミール語 Kalisan. イタリア語 Calzoni)。
 しかしこれらの例をあげたのは、決してこれらの語が邦語と因果的に関係しているという事を証明するためではなく、むしろただいかなる任意の二つの国語を取って比較しても、この種の類似がありうるものであるという事の例として取ったに過ぎない。それでたとえば、他方で「魚」や「鳥」の訓がシナ語や台湾語で説明されるとか、されないとかいう事は、ここでは問題にならないのである。
 ともかくも自分の皮相的な経験によると、いかなる国語の語彙《ごい》の比較でもあまりにおもしろい「発見」があり過ぎるような気がするので、これは少し考え方を変えなければならないという事に気がついた。そう思わせるもう一つの根拠に、AB両国語で互いに同じような音をもっていながら意味のほうでは明白になんの関係もないという例が、またかなりに多い。最も滑稽《こっけい》な例をあげるとフィンランド語では鶴《つる》が haikara であり、狼《おおかみ》が susi である。いかにこじつけたくても、フィンランドの鳥獣と東京の高襟《ハイカラ》や、江戸前の鮨《すし》とを連結すべき論理の糸は見つからない。しかしそうなると同じフィン語の狐《きつね》が kettu であり、小船が vene であり、樺《かば》が koivu であっても、これらの類似の前二者の類似との間の本質的の差を説明すべきよりどころがわからなくなるのである。
 浜の真砂《まさご》の中から桜貝を拾う子供のような好奇心の追究を一時中止して、やや冷静に立ち帰って考えてみると、これはむしろなんでもない事のようである、統計数学上の込み入った理論を持ち出すほどでなくとも、簡単なプロバビリティの考えから、少なくも原理の上からは、説明のつく事である、というふうに考えられて来た。
 まず試
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