ゆか》し。山谷堀《さんやぼり》に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂気のごとく、見る間に満員となりて馳せ出せば友にはぐれて取り残さるゝ人も多し。来る馬車も/\皆満員となりて乗る折もなし。婦人連れの事なれば奮発してようよう上等に乗ればこれもやはりギシつみにて呼吸も出来ざるをようようにして上野へ着けば雨も小止みとなりける。こゝに一行と別れて山内に入る。
 人ようよう散じて後れ帰るもの疎《まばら》なり。向うより勢いよく馳せ来る馬車の上に端坐せるは瀟洒《しょうしゃ》たる白面の貴公子。たしか『太陽』の口絵にて見たるようなりと考うれば、さなり三条|君美《きみとみ》の君よと振返れば早や見えざりける。また降り出さぬ間と急いで谷中《やなか》へ帰れば木魚の音またポン/\/\。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」
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