半日ある記
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)称名《しょうみょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本堂に人|数多《あまた》集りて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポン/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 九月二十四日、日曜日、空よく晴れて暑からず寒からず。数学の宿題も午前の中に片付けたれば午後半日は思うまま遊ぶべしと定まれば昼飯待遠し。今日は彼岸にや本堂に人|数多《あまた》集りて和尚の称名《しょうみょう》の声いつもよりは高らかなるなど寺の内も今日は何となく賑やかなり。線香と花|估《う》るゝ事しきりに小僧幾度か箒《ほうき》引きずって墓場を出つ入りつ。木魚の音のポン/\たるを後に聞き朴歯《ほおば》の木履《ぼくり》カラつかせて出で立つ。近辺の寺々いずこも参詣人多く花屋の店頭黄なる赤き菊|蝦夷菊《えぞぎく》堆《うずたか》し。とある杉垣の内を覗《のぞ》けば立ち並ぶ墓碑|苔《こけ》黒き中にまだ生々しき土饅頭《どまんじゅう》一つ、その前にぬかずきて合掌せるは二十前後の女三人と稚《おさな》き女の子一人、いずれも身なり賤《いや》しからぬに白粉気《おしろいけ》なき耳の根色白し。墓前花堆うして香煙空しく迷う塔婆《とうば》の影、木の間もる日光をあびて骨あらわなる白張燈籠目に立つなどさま/″\哀れなりける。上野へ入れば往来の人ようやくしげく、ステッキ引きずる書生の群あれば盛装せる御嬢様坊ちゃん方をはじめ、自転車はしらして得意気なる人、動物園の前に大口あいて立つ田舎漢《いなかもの》、乗車をすゝむる人力《じんりき》、イラッシャイを叫ぶ茶店の女など並ぶるは管《くだ》なり。パノラマ館には例によって人を呼ぶ楽隊の音面白そうなれば吾《われ》もまた例によって足を其方《そちら》へ運ぶ。また右手の小高き岡に上って見下ろせば木の間につゞく車馬|老若《ろうにゃく》の絡繹《らくえき》たる、秋なれども人の顔の淋しそうなるはなし。杉の大木の下に床几《しょうぎ》を積み上げたるに落葉やゝ積りて鳥の糞の白き下には小笹《おざさ》生い茂りて土すべりがちなるなど雑鬧《ざっとう》の中に幽趣なるはこの公園の特徴なるべし。西郷像の方へ行きたれども書生の群多くてうるさければ引きかえしパノラマ館裏手の坂を下る。こゝは稍《やや》静かなれど紅塵ようやく深く鉄道構内の煤煙風に迷うもうるさし。踏切を越えて通りかゝりし鉄道馬車にのる。乗客多くて坐る余地もなければ入口に凭《もた》れて倒れんとする事幾度。公園裏にて下り小路《こうじ》を入れば人の往来織るがごとく、壮士芝居あれば娘|手踊《ておどり》あり、軽業カッポレ浪花踊《なにわおどり》、評判の江川の玉乗りにタッタ三銭を惜しみたまわぬ方々に満たされて囃子《はやし》の音ただ八《や》ヶまし。猿に餌をやるどれほど面白きか知らず。魚釣幾度か釣り損ねてようやく得たる一尾に笑靨《えくぼ》傾くる少年帰ってオッカサンに何をはなすか。写真店の看板を見る兵隊さん。鯉に麩《ふ》を投ぐる娘の子。凌雲閣上《りょううんかくじょう》人《ひと》豆のごとしと思う我を上より見下ろして蛆《うじ》のごとしと嘲りし者ありしや否や。右へ廻れば藤棚の下に「御子供衆への御土産一銭から御座ります」と声々に叫ぶ玩具売《おもちゃう》りの女の子。牡丹燈籠《ぼたんどうろう》とかの活人形《いきにんぎょう》はその脇にあり。酒中花《しゅちゅうか》欠皿《かけざら》に開いて赤けれども買う人もなくて爺が煙管《きせる》しきりに煙を吐く。蓄音機今|音羽屋《おとわや》の弁天小僧にして向いの壮士腕をまくって耶蘇教《やそきょう》を攻撃するあり。曲書きのおじさん大黒天の耳を書く所。砂書きの御婆さん「へー有難う、もうソチラの方は御済《おすみ》になりましたかなー、もうありませんかなー。」へー有難うこれから当世白狐伝を御覧に入れる所なり。魔除《まよけ》鼠除けの呪文、さては唐竹割《からたけわり》の術より小よりで箸を切る伝まで十銭のところ三銭までに勉強して教える男の武者修行めきたるなど。ちと人が悪いようなれども一切|只《ただ》にて拝見したる報いは覿面《てきめん》、腹にわかに痛み出して一歩もあゆみ難くなれり。近きベンチへ腰をかけて観音様を祈り奉る俄信心《にわかしんじん》を起すも霊験《れいげん》のある筈なしと顔をしかめながら雷門《かみなりもん》を出《い》づれば仁王の顔いつもよりは苦《にが》し。仲見世《なかみせ》の雑鬧《ざっとう》は云わずもあるべし。
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