東橋《あずまばし》に出《い》づ。腹痛やゝ治まる。向うへ越して交番に百花園《ひゃっかえん》への道を尋ね、向島堤上の砂利を蹴って行く。空いつの間にか曇りてポツリ/\顔におつれどさしたる事もなければ行手を急いで上へ/\と行く。道右へ廻りて両側に料理屋茶店など立ち並ぶ間を行く。右手に萩の園と掛札ある家を、これが百花園かと門内を覗《のぞ》くに、どうやら変なれば、客待ちの車夫に問うに、百花園はまだずっと先なり。大倉の別荘の石垣に、白赤の萩溢るゝがごときに、二輌の馬車門を出でて南へ馳せ去りたる、あれは喜八郎の一家か、車上の男女いたく澄まし顔なるが先ず癪に触りける。三囲《みめぐり》の稲荷《いなり》堤上より拝し、腹まだ治まらねば団子かじる気もなく、ようやく百花園への道札見付けて堤を右へ下り、小溝に沿うてまがりくねりの道を行く半町ばかり。道傍《みちばた》、溝の畔《ほとり》に萩みだれ、小さき社の垣根に鶏頭《けいとう》赤きなど、早くも園に入りたる心地す。
この辺紺屋多し。園に達すれば門前に集《つど》う車数知れず。小門|清楚《せいそ》、「春夏秋冬花不断」の掛額もさびたり。門を入れば萩先ず目に赤く、立て並べたる自転車おびたゞし。左脇の家に人|数多《あまた》集《つど》い、念仏の声洋々たるは何の弔いか。その隣に楽焼《らくやき》の都鳥など売る店あり。これに続く茶店二、三。前に夕顔棚ありて下に酒酌む自転車乗りの一隊、見るから殺風景なり。その前は一面の秋草原。芒《すすき》の蓬々《ほうほう》たるあれば萩の道に溢れんとする、さては芙蓉《ふよう》の白き紅なる、紫苑《しおん》、女郎花《おみなえし》、藤袴《ふじばかま》、釣鐘花《つりがねばな》、虎の尾、鶏頭、鳳仙花《ほうせんか》、水引《みずひき》の花さま/″\に咲き乱れて、径《みち》その間に通じ、道傍に何々塚の立つなどあり。中に細長き池あり。荷葉《かよう》半ば枯れなんとして見る影もなきが一入《ひとしお》秋草の色に映りて面白し。春夏の花木もあれども目に入らず。しのぶ塚と云うを見ているうち我を呼びかける者あり。ふりかえれば森田の母子と田中君なり。連れ立って更に園をめぐる。草花に処々《ところどころ》釣り下げたる短冊《たんざく》既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪《そくはつ》の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。腹痛ようやく止む。鐘《かね》が淵《ふち》紡績《ぼうせき》の煙突《えんとつ》草後に聳《そび》え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇《ボート》を乗り出す者二、三。前は桜樹の隧道《ずいどう》、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半《うえはん》の屋根に止れる鳶《とび》二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じゃと云ううち左なる一羽嘲るがごとく此方《こっち》を向きたるに皆々どっと笑う。道傍に並ぶ柱燈|人造麝香《じんぞうじゃこう》の広告なりと聞きてはますます嬉しからず。渡頭《わたしば》に下り立ちて船に上る。千住《せんじゅ》よりの小蒸気けたゝましき笛ならして過ぐれば余波|舷《ふなばた》をあおる事少時。乗客間もなく満ちて船は中流に出でたり。雨催《あまもよい》の空濁江に映りて、堤下の杭に漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》寄するも、蘆荻《ろてき》の声静かなりし昔の様尋ぬるに由なく、渡番小屋《わたしばんごや》にペンキ塗の広告看板かゝりては簑《みの》打ち払う風流も似合うべくもあらず。今戸《いまど》の渡《わたし》と云う名ばかりは流石《さすが》に床《ゆか》し。山谷堀《さんやぼり》に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂気のごとく、見る間に満員となりて馳せ出せば友にはぐれて取り残さるゝ人も多し。来る馬車も/\皆満員となりて乗る折もなし。婦人連れの事なれば奮発してようよう上等に乗ればこれもやはりギシつみにて呼吸も出来ざるをようようにして上野へ着けば雨も小止みとなりける。こゝに一行と別れて山内に入る。
人ようよう散じて後れ帰るもの疎《まばら》なり。向うより勢いよく馳せ来る馬車の上に端坐せるは瀟洒《しょうしゃ》たる白面の貴公子。たしか『太陽』の口絵にて見たるようなりと考うれば、さなり三条|君美《きみとみ》の君よと振返れば早や見えざりける。また降り出さぬ間と急いで谷中《やなか》へ帰れば木魚の音またポン/\/\。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」
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