と伊豆の国というものの大きさがぼんやり分かるようであり、左を見下ろすと箱根山の高さのおおよその概念が確定するような気がする。女車掌が蟋蟀《こおろぎ》のような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩《ぬすびとうまや》の昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。十国峠の無線塔へぞろぞろと階段を上って行く人の群は何となく長閑《のどか》に見えた。
 熱海へ下る九十九折《つづらおり》のピンヘッド曲路では車体の傾く度に乗合の村嬢の一団からけたたましい嬌声が爆発した。気圧の急変で鼓膜を圧迫されるのをかまわないでいたら、熱海海岸で車を下りてみると耳がひどく遠くなっているのに気がついた。いくら唾を呑込んでみても直らない。人の物いう声が遠方に聞こえる代りに自分の声が妙に耳に籠って響くので、何となく心細くなってしまった。
 熱海は自分にはずいぶん思い出の多い土地である。明治十九年に両親と祖母に伴われて東海道を下ったときに、途中で祖母が不時の腹痛を起こしたために予定を変えて吉浜《よしはま》で一泊した。ひどい雨風の晩で磯打つ波の音が枕に響いて恐ろしかったのが九歳の幼な心に
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