函館の大火について
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)函館《はこだて》市に大火があって

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|詮索《せんさく》するのは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和九年五月、中央公論)
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 昭和九年三月二十一日の夕から翌朝へかけて函館《はこだて》市に大火があって二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。そうしてこれが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいことなのである。
 徳川時代の江戸には大火が名物であった。振袖火事《ふりそでかじ》として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午《ひる》ごろ目黒《めぐろ》行人坂《ぎょうにんざか》大円寺《だいえんじ》から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝《しば》桜田《さくらだ》から今の丸《まる》の内《うち》を焼いて神田《かんだ》下谷《したや》浅草《あさくさ》と焼けつづけ、とうとう千住《せんじゅ》までも焼け抜けて、なおその火の支流は本郷《ほんごう》から巣鴨《すがも》にも延長し、また一方の逆流は今の日本橋区《にほんばしく》の目抜きの場所を曠野《こうや》にした。これは焼失区域のだいたいの長さから言って今度の函館のそれの三倍以上であった。これは西暦一七七二年の出来事で今から百六十二年の昔の話である。当時江戸の消防機関は長い間の苦《にが》い経験で教育され訓練されてかなりに発達してはいたであろうが、ともかくも日本にまだ科学と名のつくもののなかった昔の災害であったのである。
 関東震災に踵《くびす》を次いで起こった大正十二年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直接の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。あの時の火災がどうしてあれほどに暴威をほしいままにしたかについてはもとよりいろいろの原因があった。一つには水道が止まった上に、出火の箇所が多数に一時に発生して消防機関が間に合わなかったのは事実である。また一つには東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために徳川時代に多大の犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防の事は警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察のほうでもまたそうとばかり信じ切っていたために市民の手からその防火の能力を没収してしまった。そのために焼かずとも済むものまでも焼けるに任せた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。
 今回の函館《はこだて》の大火はいかにして成立し得たか、これについていくらかでも正鵠《せいこく》に近い考察をするためには今のところ信ずべき資料があまりに僅少《きんしょう》である。新聞記事は例によってまちまちであって、感傷をそそる情的資料は豊富でも考察に必要な正確な物的資料は乏しいのであるが、内務省警保局発表と称する新聞記事によると発火地点や時刻や延焼区域のきわめてだいたいの状況を知ることはできるようである。まず何よりもこの大火を大火ならしめた重要な直接原因は当時日本海からオホツク海に駆け抜けた低気圧のしわざに帰せなければならない。天気図によると二十一日午前六時にはかなりな低気圧の目玉が日本海の中央に陣取っていて、これからしっぽを引いた不連続線は中国から豊後水道《ぶんごすいどう》のあたりを通って太平洋上に消えている。こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度《ひんど》が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌《さっぽろ》の真西あたりの見当の日本海のまん中に来てその威力をたくましくしていた。そのために東北地方から北海道南部は一般に南西がかった雪交じりの烈風が吹きつのり、函館《はこだて》では南々西秒速十余メートルの烈風が報ぜられている。この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町《やちがしらまち》から最初の火の手が上がったのである。
 古来の大火の顛末《てんまつ》を調べてみるといずれの場
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