合でも同様な運命ののろいがある。明暦三年の振袖火事《ふりそでかじ》では、毎日のように吹き続く北西気候風に乗じて江戸の大部分を焼き払うにはいかにすべきかを慎重に考究した結果ででもあるように本郷《ほんごう》、小石川《こいしかわ》、麹町《こうじまち》の三か所に相次いで三度に火を発している。由井正雪《ゆいしょうせつ》の残党が放火したのだという流言が行なわれたのももっともな次第である。明和九年の行人坂の火事には南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために最好適地と考えられる目黒の一地点に乞食坊主《こじきぼうず》の真秀《しんしゅう》が放火したのである。しかし、それはもちろんだれが計画したわけでもなく、偶然そういう「大火の成立条件」がそろったために必然的に大火が成立し、それがためにこそ稀有《けう》の大火として歴史に残っているに過ぎないのである。同様に現在の函館の場合においても偶然にも運悪くこの条件が具備していたために歴史的な大火災ができあがったに相違ないのである。
江戸の火災の焼失区域を調べてみると、相応な風のあった場合にはほとんどきまって火元を「かなめ」として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期される事であり、またたとえば実験室において油をしみ込ませた石綿板の一点に放火して、電扇の風であおぐという実験をやってみてもわかることである。風速の強いときほど概してこの扇形の頂角が小さくなるのが普通で、極端な例として享保年間のある火事は麹町《こうじまち》から発火して品川沖《しながわおき》へまで焼け抜けたが、その焼失区域は横幅の平均わずかに一二町ぐらいで、まるで一直線の帯のような格好になっている。風がもっともっと強くなればすべての火事はほんとうに「吹き消される」はずである。しかし江戸大火の例で見ると、この焼失区域の扇形の頂角はざっと六十度から三十度の程度である。明暦大火の場合はかなりの烈風でおそらく十メートル以上の秒速であったと思われる根拠があるが、その時のこの頂角がだいたいにおいて、今度の函館《はこだて》の火元から焼失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい。そうしてこの頂角を二等分する線の方向がほぼ発火当時の風向に近いのである。これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。
二十二日午前六時には低気圧中心はもうオホツク海に進出して邦領カラフトの東に位し、そのために東北地方から北海道南部はいずれもほとんど真西の風となっている。それで発火後風向はだんだんに南々西から西へ西へと回転して行ったに相違ない。このことがまた実に延焼区域を増大せしめるためにまるであつらえたかのように適応しているのである。もしも最初の南々西の風が発火後その方向を持続しながら風速を増大したのであったらおそらく火流は停車場付近を右翼の限界として海へ抜けてしまったであろうと思われるのが、不幸にも次第に西へ回った風の転向のために火流の針路が五稜郭《ごりょうかく》の方面に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される。この気象学者には予測さるべき風向の旋転のために死なずともよい多数の人が死んだのである。
火災中にしばしば風向が変わったと報ぜられているがこれは大火には必然な局部的随伴現象であって現場にいる人にとっては重大な意義をもつものであるが、延焼区域の大勢を支配するものではないから、上記の推測に影響を及ぼす性質のものではないと思われる。
要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであったことは疑いもない事実である。
函館《はこだて》市は従来しばしば大火に見舞われた苦《にが》い経験から自然に消防機関の発達を促され、その点においては全国中でも優秀な設備を誇っていたと称せられているのであるが、それにもかかわらず今日のような惨禍のできあがったというのは、一つには上記のごとき不幸な偶然の回り合わせによるものであるには相違ない。おそらくそのほかにもいろいろ平生の火災とはちがった意外な事情が重なり合って、それでこそあのような稀有《けう》の大火となってしまったであろうと想像される。
だれも知るとおり火事の大小は最初の五分間できまると言われている。近ごろの東京で冬期かなりの烈風の日に発火してもいっこうに大火にならないのは消火着手の迅速なことによるらしい。しかし現在の東京でもなんらか「異常な事情」のためにほんの少しばかり消防が手おくれになって、そのために誤ってある程度以上に火流の前線を郭大せしめ、そうしてそれを十余メートルの烈風があおり立てたとしたら、現在の消防設備をもって
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