電車と風呂
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大抵《たいてい》神経過敏な緊張

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)美醜|老若《ろうにゃく》の別なく

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年五月『新小説』)
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 電車の中で試みに同乗の人々の顔を注意して見渡してみると、あまり感じの好い愉快な顔はめったに見当らない。顔色の悪い事や、眼鼻の形状配置といったようなものは別としても、顔全体としての表情が十中八、九までともかくも不愉快なものである。晴れ晴れと春めいた気持の好い表情は、少なくも大人の中にはめったに見付からない。大抵《たいてい》神経過敏な緊張か、さもなくば過度の疲労から来る不感《アパシイ》が人々の眼と眉の間や口の周囲に残忍に刻まれている。たまには面白そうに笑っている人があってもその笑いは多くの場合には笑わないよりも一層気持の悪い笑いである。これらの沢山《たくさん》の不愉快な顔が醸《かも》す一種の雰囲気は強い伝染性を持っていて、外から乗り込んで来る人の心に、すぐさま暗い影を投げないではおかない、そして多くの人の腹の虫の居所を変えさせようとする傾向がある。
 自分がこういう感じを始めてはっきり自覚したのは外国から帰った当座の事であった。二年振りで横浜へ上陸して、埠頭《ふとう》から停車場へ向かう途中で寛闊《かんかつ》な日本服を着て素足で歩いている人々を見た時には、永い間カラーやカフスで責めつけられていた旅の緊張が急に解けるような気がしたが、この心持は間もなく裏切られてしまわねばならなかった。その夜東京の宿屋で寝たら敷蒲団《しきぶとん》が妙に硬くて、まるで張り板の上にでも寝かされるような気がした。便所へ行くとそれが甚だしく不潔で顔中の神経を刺戟された。翌朝久し振りで足駄を買って履《は》いてみると、これがまた妙にぎごちないものであった。そして春田のような泥濘《ぬかるみ》の町を骨を折って歩かなければならなかった。そのうちに天気が好くなると今度は強い南のから風が吹いて、呼吸《いき》もつまりそうな黄塵《こうじん》の中を泳ぐようにして駆けまわらねばならなかった。そして帽子をさらわれないために間断なき注意を余儀なくさせられた。電車に乗ると大抵満員――それが日本特有の満員で、意地悪く押されもまれて、その上に足を踏みつけられ、おまけに踏んだ人から「間抜けめ、気を付けろい」などと罵《ののし》られて黙っていなければならなかった。このような――当り前ならば多分何でもないと思われるべき事が、しばらく忘れていただけに非常に強く当時の自分の頭に印象された。その時分から妙に電車の乗客の顔が不愉快に陰鬱にあるいは険悪に見え出したのである。そして色々な事を考えてみた。あまり確実な事は云われないが、西洋の電車ではこんな心持のした事はなかったように思う。勿論《もちろん》疲れた眠い顔や、中にはずいぶん緊張した顔もあるにはあったろうが、別にそれがために今のように不愉快な心持はしなかった。人種の差から免れ難い顔の道具の形や居ずまいだけがこのような差別の原因であろうか、何かもっとちがったところに主要な原因があるのではあるまいかと考えてみた。
 先ず堅い高足駄《たかあしだ》をはいて泥田の中をこね歩かなければならない事、それから空風《からかぜ》と戦い砂塵に悩まされなければならない事、このような天然の道具立にかてて加えて、文明の産み出したこの満員電車に割り込んで踏まれ押され罵られなければならない事、ただこの三つの条件だけでも自分のような弱い者にはかなりに多く神経の不愉快な緊張を感じさせる。これが毎日日課のように繰返される間には、自分の顔の皺《しわ》の一つや二つは増すに相違ない。
 近頃アメリカの学者の書いたものを読んでいたら、その中に、「英国人に比べてみると米国人の顔なり挙動なりはあまり緊張し過ぎている。これは心に余裕のない事を示す。その原因は気候の険悪などというためではなくて、人と人との間に養成された習慣が第二の天性に変化したのである。これを治療するにはやはり余裕のある人を模倣する事によって習性を改める外はない」と論じている。これを読んでなるほどと感心した。
 しかしまだどうもこの説には充分に腑《ふ》に落ちないところがある。もし東京にあの風が吹かなかったら、もし東京の街の泥と塵がなかったら、そして電車の数を増すか、あるいはいっその事に全部無くしてしまったら、それだけでも東京市民の顔は幾分か柔らかく快いものになりはしまいかと思われる。
 こう考える理由が一つある。
 東京市民の顔の緊張がやや弛《ゆる》んで見える場所がある、それは外でもない風呂屋である。日本に特有なこの有難い公
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