共設備の入口の暖簾《のれん》を潜って中へはいると、先ず番台からかけられる声からが既によほどゆるやかなものである。そして柔らかく温かに湿った湯気の中に動いている人の顔にも、鏡の前に裸で立ちはだかって頬を膨《ふく》らしてみたり腹を撫《な》でてみたりしている人の顔にも、湯槽《ゆぶね》の水面に浮んでいるデモクラチックな顔にも、美醜|老若《ろうにゃく》の別なく、一様に淡く寛舒《レラクセーション》の表情が浮んでいる。
 この有難い設備と習慣とがなかったら東京市民の顔は今頃どんなものに変化しているだろう。
 銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない。
 もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同じ大浴場の湯気にうだるようにしたら、存外|六《むつ》ヶしい世の中の色々の大問題がヤスヤス解決される端緒にもなりはしまいか。こんな事を考えてみたこともある。
 風呂場が人間に与える微妙な影響の中で面白いのは、多くの人が歌を唱いたくなる事である。英国の有名な物理学者が近頃ロンドンのローヤルインスチチューションでやった講演の中で「人は何故浴場で歌いたくなるか」という問題を提出したら聴衆は大いに笑ったそうである。して見ると浴場で歌うという傾向は江戸ッ子に限らないと見える。この学者の説によると、第一に水の流出する音が人の声を誘う、第二には浴場の壁は普通の家のように音波を擾乱《じょうらん》するものがないためによく反響して声が充実して聞えるためだという。しかしこの説が日本の浴場にも通用するかどうか少し疑わしい。自分の考えでは温浴のために血行がよくなり、肉体従って精神の緊張が弛《ゆる》んで声帯の振動も自由になるのが主な原因であるまいかと思う。緊張した時には咳払いをしなければ声が出にくいのは誰も知る通りである。いつかベルリンで見た歌劇で幕があくとタンホイゼルが女神の膝を枕にして寝ている、そして Zu viel! zu viel! と歌いながら起き上がる時に咽喉《のど》がつかえて妙な声になりそうなので咳払いを一つして始末をつけたのを記憶している。専門家でさえそうである。自分の経験でも風呂から出たすぐ後で唱歌をやると、自分の声かと思うように楽に大きな声が出る。そして平生は出ないfの音が骨を折らずに自由に出る。
 電車の走る音の中にも種々な楽音が含まれている事は少し注意して見れば分る。モーターの早い規律正しい廻転から起る音の中にはかなり純粋な楽音がいくつかある。しかし電車の中で歌いたくなる人はあまりなさそうである。たとえ取締規則がこれを許しても、また二、三の変り者が実例を示して鼓吹《こすい》したにしてもあまり流行はしそうもない、してもあの緊張した空気の中で好い声が楽に出ようとは思われない。
 電車のゴウゴウと鳴る音のエネルギーの源をだんだんに捜して行くと思い掛けない甲州の淋しい山中の谷川に到着する。気持のいい谷川の瀬の音と電車の音とは実は従兄弟《いとこ》である。それから電車のポールの尖端から出る気味の悪い火花も、日本アルプスを照らす崇厳《すうごん》な稲妻の曾孫《ひまご》くらいのものに過ぎない。しかし同じ源から出たエネルギーはせち辛い東京市民に駆使される時に苦しい唸《うめ》き声を出し、いらだたしい火花を出しながら駆使者の頭上に黒い呪《のろい》を投げている。
 科学の示す可能の範囲は多くの人の予想以外に広いものである。それにもかかわらず現代の応用科学の産み出した文化は天地間のエネルギーを駆使して多くの唸《うな》り声や吼声《ほえごえ》を製造するに忙しい。このエネルギーの小部分を割《さ》いて電車の乗客の顔を柔らげる目的に使用する事は出来ないものだろうか。科学がキャピタリズムやミリタリズムやないしボルシェヴィズムの居候《いそうろう》になっているうちは、まあ当分見込がなさそうに思われる。
 満員電車にぶら下がっている人々の傍《そば》を自動車で通る人があるから世の中に社会主義などというものが出来るという人がある。一応|尤《もっと》もらしく聞える。何とかいう芝居で鋳掛屋《いかけや》の松という男が、両国橋の上から河上を流れる絃歌の声を聞いて翻然大悟しその場から盗賊に転業したという話があるくらいだから、昔から似よった考えはあったに相違ない。しかしまた昔はずいぶん人の栄華を見て奮発心を起して勉強した人も沢山あって、そういう事の方が多く讃美され奨励されていたようでもある。
 南向いている豚の尻を鞭《むち》でたたけば南へ駆け出し、北向いている野猪《やちょ》をひっぱたけば北へ向いて突進する。同じ鋳掛屋がもしも一風呂浴びてここを通りかかったのだったら、同じ絃歌の音は却《かえ》って彼の唱歌を誘い出したかもしれない。こう考えると日本のある種の過激思想の発
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