田園雑感
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)都会と田舎《いなか》と
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)代表的|田舎者《いなかもの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そしてなしくずし[#「なしくずし」に傍点]に
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一
現代の多くの人間に都会と田舎《いなか》とどちらが好きかという問いを出すのは、蛙《かえる》に水と陸とどっちがいいかと聞くようなものかもしれない。
田舎だけしか知らない人には田舎はわからないし、都会から踏み出した事のない人には都会はわからない。都鄙《とひ》両方に往来する人は両方を少しずつ知っている。その結果はどちらもわからない前の二者よりも悪いかもしれない。性格が分裂して徹底した没分暁漢になれなくなるから。それはとにかく、自分は今のところでは田舎《いなか》よりも都会に生活する事を希望し、それを実行している。
田舎の生活を避けたい第一の理由は、田舎の人のあまりに親切な事である。人のする事を冷淡に見放しておいてくれない事である。たとえば雨のふる日に傘《かさ》をささないで往来を歩きたいと思ったとしても、なかなかそうはさせてくれない。鼻の先に止まった蚊をそっとしておきたいと思っても、それは一通りの申し訳では許されない。
親切であるために人の一挙一動は断えず注意深い目で四方から監視されている。たとえば何月何日の何時ごろに、私がすすけた麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶって、某の橋を渡ったというような事実が、私の知らない人の口から次第に伝わって、おしまいにはそれが私の耳にもはいるのである。個人の一挙一動は寒天のような濃厚な媒質を透して伝播《でんぱ》するのである。
反応を要求しない親切ならば受けてもそれほど恐ろしくないが、田舎《いなか》の人の質樸《しつぼく》さと正直さはそのような投げやりな事は許容しない。それでこれらの人々から受けた親切は一々明細に記録しておいて、気長にそしてなしくずし[#「なしくずし」に傍点]にこれを償却しなければならないのである。
そこへ行くとさすがに都会の人の冷淡さと薄情さはサッパリしていて気持ちがいい。大雨の中を頭からぬれひたって銀座通りを歩いていてもだれもとがめる人もなければ、よけいな心配をする人もない。万一受けた親切の償却も簡易な方法で行なわれる。
それだから一見閑静な田舎に住まっていては、とても一生懸命な自分の仕事に没頭しているわけにはいかない。それには都会の「人間の砂漠《さばく》」の中がいちばん都合がいい。田舎では草も木も石も人間くさい呼吸をして四方から私に話しかけ私に取りすがるが、都会ではぎっしり詰まった満員電車の乗客でも川原《かわら》の石ころどうしのように黙ってめいめいが自分の事を考えている。そのおかげで私は電車の中で難解の書物をゆっくり落ち付いて読みふける事ができる。宅《うち》にいれば子供や老人という代表的|田舎者《いなかもの》がいるので困るが、電車の中ばかりは全く閑静である。このような静かさは到底田舎では得られない静かさである。静か過ぎてあまりにさびしいくらいである。
これで都会に入り込んでいる「田舎の人」がいなければどんなに静かな事であろう。
二
今ではどうだか知らないが、私の国では村の豪家などで男子が生まれると、その次の正月は村じゅうの若い者が寄って、四畳敷き六畳敷きの大きな凧《たこ》をこしらえてその家にかつぎ込む。そしてそれに紅白、あるいは紺と白と継ぎ分けた紙の尾を幾条もつけて、西北の季節風に飛揚させる。刈り株ばかりの冬田の中を紅もめんやうこん[#「うこん」に傍点]もめんで頬《ほお》かぶりをした若い衆が酒の勢いで縦横に駆け回るのはなかなか威勢がいい、近辺のスパルタ人種の子供らはめいめいに小さな凧《たこ》を揚げてそれを大凧の尾にからみつかせ、その断片を掠奪《りゃくだつ》しようと争うのである。大凧が充分に風をはらんで揚がる時は若者の二人や三人は引きずられるくらいの強い牽引力《けんいんりょく》をもっている。
凧揚げのあとは酒宴である。それはほんとうにバッカスの酒宴で、酒は泉とあふれ、肉は林とうずたかく、その間をパンの群れがニンフの群れを追い回すのである。
豪家に生まれた子供が女であったために、ひどく失望した若い者らは、大きな羽子板へ凧のように糸目をつけてかつぎ込んだなどという話さえある。
子供の初節句、結婚の披露《ひろう》、還暦の祝い、そういう機会はすべて村のバッカスにささげられる。そうしなければその土地には住んでいられないのである。
そういう家に不幸のあった時には村じゅうの人が寄り集まって万端の世話をする。世話人があまりおおぜいであるために事務は
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