かえって渋滞する場合もある。そして最後にはやはり酒が出なければ収まらない。
 ある豪家の老人が死んだ葬式の晩に、ある男は十二分の酒を飲んで帰る途中の田んぼ道で、連れの男の首玉にかじりついて、今夜ぐらい愉快に飲んだ事は近来にないという事をなんべんもなんべんも繰り返しながらよろけ歩いていた。これなどは最も徹底的な一例であろう。
 危篤な病人の枕《まくら》もとへはおおぜいの見舞い人が詰めかける。病人の頭の上へ逆さまに汗臭い油ぎった顔をさし出して、むつかしい挨拶《あいさつ》をしむつかしい質問をしかける。いっそう親切なのになると瀕死《ひんし》の人にいやがらせ[#「いやがらせ」に傍点]を言う。そうして病人は臨終の間ぎわまで隣人の親切を身にしみるまで味わわされるのである。

       三

 田舎《いなか》の自然はたしかに美しい。空の色でも木の葉の色でも、都会で見るのとはまるでちがっている。そういう美しさも慣れると美しさを感じなくなるだろうという人もあるが、そうとは限らない。自然の美の奥行きはそう見すかされやすいものではない。長く見ていればいるほどいくらでも新しい美しさを発見する事ができるはずのものである。できなければそれは目が弱いからであろう。一年や二年で見飽きるようなものであったら、自然に関する芸術や科学は数千年前に完結してしまっているはずである。
 六つになる親類の子供が去年の暮れから東京へ来ている。これに東京と国とどっちがいいかと聞いてみたら、おくにのほうがいいと言った。どうしてかと聞くと「お国の川にはえび[#「えび」に傍点]がいるから」と答えた。
 この子供のえび[#「えび」に傍点]と言ったのは必ずしも動物学上のえび[#「えび」に傍点]の事ではない。えび[#「えび」に傍点]のいる清洌《せいれつ》な小川の流れ、それに緑の影をひたす森や山、河畔に咲き乱れる草の花、そういうようなもの全体を引っくるめた田舎《いなか》の自然を象徴するえび[#「えび」に傍点]でなければならない。東京でさかな屋から川えびを買って来てこの子供にやってみればこの事は容易に証明されるだろう。
 私自身もこのえび[#「えび」に傍点]の事を考えると、田舎が恋しくなる。しかしそれは現在の田舎ではなくて、過去の思い出の中にある田舎である。えび[#「えび」に傍点]は今でもいるが「子供の私」はもうそこにはいないからである。
 しかしこの「子供の私」は今でも「おとなの私」の中のどこかに隠れている。そして意外な時に出て来て外界をのぞく事がある。たとえば郊外を歩いていて道ばたの名もない草の花を見る時や、あるいは遠くの杉《すぎ》の木のこずえの神秘的な色彩を見ている時に、わずかの瞬間だけではあるが、このえび[#「えび」に傍点]の幻影を認める事ができる。それが消えたあとに残るものは淡い「時の悲しみ」である。
 自然くらい人間に親切なものはない。そしてその親切さは田舎《いなか》の人の親切さとは全く種類のちがったものである。都会にはこの自然が欠乏していてそのかわりに田舎の「人」が入り込んでいるのである。

       四

 盆踊りというものはこのごろもうなくなったのか、それとも警察の監視のもとにある形式で保存されている所もあるかどうだか私は知らない。
 私が前後にただ一度盆踊りを見たのは今から二十年ほど前に南海のある漁村での事であった。肺結核でそこに転地しているある人を見舞いに行って一晩泊まった時がちょうど旧暦の盆の幾日かであった。蒸し暑い、蚊の多い、そしてどことなく魚臭い夕靄《ゆうもや》の上を眠いような月が照らしていた。
 貴船神社《きふねじんじゃ》の森影の広場にほんの五六人の影が踊っていた。どういう人たちであったかそれはもう覚えていない。私にはただなんとなくそれがおとぎ話にあるようなさびしい山中の妖精《ようせい》の舞踊を思い出させた。そしてその時なぜだか感傷的な気分を誘われた。
 その時見舞った病人はそれからまもなくなくなったのである。
 私は今でも盆踊りというとその夜を思い出すが、不思議な錯覚から、その時踊っていた妖精《ようせい》のような人影の中に、死んだその人の影がいっしょに踊っていたのだというような気がしてしかたがない。
 そして思う。西洋くさい文明が田舎《いなか》のすみずみまで広がって行っても、盆の月夜には、どこかの山影のような所で、昔からの大和民族《やまとみんぞく》の影が昔の踊りを踊っているのではあるまいかと。
 盆踊りという言葉にはイディルリックなそしてセンシュアスな余韻がある。しかしそれはどうしても現代のものではない。その余韻の源にさかのぼって行くと徳川時代などを突き抜けて遠い遠い古事記などの時代に到着する。
 盆踊りのまだ行なわれている所があればそこにはどこかに奈良
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