朝《ならちょう》以前の民族の血が若い人たちのからだに流れているような気がしてしかたがない。そうしてそれが今滅亡に瀕《ひん》しているような悲しみを感ずる。

       五

 夏の盛りに虫送りという行事が行なわれる。大きな太鼓や鐘があぜ道にすえられて赤裸の人形が力に任せてそれをたたく。
 音が四方の山から反響し、家の戸障子にはげしい衝動を与える。空には火炎のような雲の峰が輝いている。朱を注いだような裸の皮膚には汗が水銀のように光っている。すべてがブランギンの油絵を思い出させる。
[#図1、虫送りの太鼓や鐘の音を表す楽譜]
 耳を聾《ろう》するような音と、眼を眩《げん》するような光の強さはその中にかえって澄み通った静寂を醸成する。ただそれはものの空虚なための静かさでなくて、ものの充実しきった時の不思議な静かさである。
 はげしい音波の衝動のために、害虫がはたしてふるい落とされるか、落とされた虫がそれきりになるかどうか、たしかな事はだれもおそらく知らなかった。しかしこんな事はどうでもいいような気がする。あれはある無名の宗教の荘重な儀式と考えるべきものである。
 私はここに一つの案をもっている。それはたとえば東京の日比谷公園《ひびやこうえん》にある日を期して市民を集合させる。そして田舎《いなか》で不用になっている虫送りの鐘太鼓を借り集めて来てだれでもにそれをたたかせる。社会に対し、政府に対し、同胞に対しまた家族に対してあらゆる種類の不平不満をいだいている人は、この原始的楽器を原始的の努力をもってたたきつけるのである。
 もう少し社会が進歩すると私のこの案を笑う人がなくなるかもしれないような気がする。

       六

 郷里からあまり遠くないA村に木《き》の丸神社《まろじんじゃ》というのがある。これは斉明天皇《さいめいてんのう》を祭ったものだと言われている。天皇が崩御《ほうぎょ》になった九州のある地方の名がすなわちこの村の名になっている。どういうわけでこの南海の片すみの土地がこの天皇と結びつけられるようになったのか私は知らない。たしかな事はおそらくだれにもわかるまい。それにもかかわらずこういう口碑は人の心を三韓征伐《さんかんせいばつ》の昔に誘う。そして現代の事相に古い民俗的の背景を与える。
 この神社の祭礼の儀式が珍しいものであった。子供の時分に一二度見ただけだから、もう大部分は忘れてしまったが、夢のような記憶の中を捜すとこんな事が出て来る。
 やはり農家の暇な時季を選んだものだろう。儀式は刈り株の残った冬田の上で行なわれた。そこに神輿《みこし》が渡御になる。それに従う村じゅうの家々の代表者はみんな裃《かみしも》を着て、傘《からかさ》ほどに大きな菅笠《すげがさ》のようなものをかぶっていた。そして左の手に小さな鉦《しょう》をさげて右の手に持った木づちでそれをたたく。単調な声でゆるやかな拍子で「ナーンモーンデー」と唱えると鉦の音がこれを請けて「カーンコ、カンコ」と響くのである。どういう意味だかわからない。ある人は「南門殿還幸」を意味すると言っていたがそれはあまり当てにはならない。私はむしろ意味のわからないほうがいいような気がしていた。
 神輿の前で相撲《すもう》がある。しかしそれは相撲をとる[#「とる」に傍点]のではなくて、相撲を取らない[#「取らない」に傍点]のである。美々しい回しをつけた力士が堂々としてにらみ合っていざ組もうとすると、衛士《えじ》だか行司だかが飛び出して来て引き分け引き止める。そういう事がなんべんとなく繰り返される。そして結局相撲は取らないでおしまいになるのである。どういう由緒《ゆいしょ》から起こった行事だか私は知らない。それにもかかわらずそれを見る人の心は遠い昔に起こったある何かしらかなり深刻な事件のかすかな反響のようなものを感ずる。
 そのほか「棒使い」と言って、神前で紅白の布を巻いた棒を振り回す儀式もあったが、詳しい事はもうよくは覚えていない。
 文明の波が潮のように片田舎《かたいなか》にも押し寄せて来て、固有の文化のなごりはたいてい流してしまった。「ナーンモーンデー」の儀式もいつのまにか廃止された。学校へ行って文明を教わっている村の青年たちには、裃《かみしも》をつけて菅笠《すげがさ》をかむって、無意味なような「ナーンモーンデー」を唱える事は、堪え難い屈辱であり、自己を野蛮化する所行のように思われたのである。これは無理のない事である。
 簡単な言葉と理屈で手早くだれにもわかるように説明のできる事ばかりが、文明の陳列棚《ちんれつだな》の上に美々しく並べられた。そうでないものは塵塚《ちりづか》に捨てられ、存在をさえ否定された。それと共に無意味の中に潜んだ重大な意味の可能性は葬られてしまうのである。幾千年来伝わ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング