雨とか黄雀風とか云つたものは稀であるが、誰にでも濃厚な實感のある春雨とか秋風とかには古今を通じて非常に多數な句がある。此れは前述の理由から當然のことである。即ち季節の感じの最直接なものであり、あらゆる季節的連想の背景となりセットとなるものだからである。
 併し注意すべきことは、さういふ句のうちで、他の景物を配することなしに單に此等の天文の季題そのものを諷詠し敍述したものは比較的に少數で佳句は猶更少ないといふことである。「いなづまやきのふは東けふは西」(其角)とか「春の雨霽れんとしては烟るかな」(漱石)といつたやうなのは極めて稀である。それ程でなくても季題自身を主題として此れに他の景物を配し、その配合の效果を借りて此を描寫したものでさへも割合に少數である。「白雨にしばらく土の匂ひ哉」(徳圃)とか、「五月雨の折々くわつと野山かな」(鳴雪)といふ種類のものである。併し此れに反して、天文の季題が他の景物の背景として取合せの材料として使はれて居るものは非常に多數である。例へば春風といつたやうな季題だと實際大概のものを持つて來て配合すればどうやら俳句のやうなものが出來易い。併し、それだけに本當に「
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