い。夕立に似た雨はあつても、「日本の夏」を知らない西洋の驟雨は決して「夕立」の句を生み出し得ないであらうと思はれる。
 此のやうな自然界の多種多樣な現象の分化は、自ら此れ等の微細な差別のニュアンスに對する日本人の感覺を鋭敏にしたであらうと想像される。芭蕉が「乾坤の變は風雅のたね也」と云つたといふのにも、いくらか此の意味がありはしないかと思はれる。實際滿洲とか西比利亞とか露西亞とか、あゝいつたやうな單調な風土氣候をもつた國の住民の中から當然ニヒリズムや、マルキシズムは生れても俳句が生れようとはどうにも想像されにくいことである。
 人事、動物、植物の季題でもそれが所謂季題である限り矢張其の背後に隱れた天文の背景をもつて居ることは勿論である。それ故に飯を食ふことや散歩することは季題にならず、鴉や松は季題にはならないのである。
 俳句に取つてそれ程に大事な季節を直接に指定する天文の季題の句にどんなものがあるかを點檢して見る。實際に統計して見た譯ではないが、兎も角も、私の此處で所謂天文に關する句の多數なことは明白な事實である。尤も、さういふ季題でも、一般の人々に實感の少ない特殊なもの、例へば虎が
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