雨とか黄雀風とか云つたものは稀であるが、誰にでも濃厚な實感のある春雨とか秋風とかには古今を通じて非常に多數な句がある。此れは前述の理由から當然のことである。即ち季節の感じの最直接なものであり、あらゆる季節的連想の背景となりセットとなるものだからである。
併し注意すべきことは、さういふ句のうちで、他の景物を配することなしに單に此等の天文の季題そのものを諷詠し敍述したものは比較的に少數で佳句は猶更少ないといふことである。「いなづまやきのふは東けふは西」(其角)とか「春の雨霽れんとしては烟るかな」(漱石)といつたやうなのは極めて稀である。それ程でなくても季題自身を主題として此れに他の景物を配し、その配合の效果を借りて此を描寫したものでさへも割合に少數である。「白雨にしばらく土の匂ひ哉」(徳圃)とか、「五月雨の折々くわつと野山かな」(鳴雪)といふ種類のものである。併し此れに反して、天文の季題が他の景物の背景として取合せの材料として使はれて居るものは非常に多數である。例へば春風といつたやうな季題だと實際大概のものを持つて來て配合すればどうやら俳句のやうなものが出來易い。併し、それだけに本當に「動かない」春風の句を作るのは容易でないのであつて、例へばいゝ加減な句集の中で春風を秋風で置換へても大した差しつかへのないやうなものを物色すれば一頁に二三はすぐに見付かる位である。併し「秋風や白木の弓に弦はらん」(去來)や、「日の入や秋風遠く鳴つて來る」(漱石)や、「あかあかと日はつれなくも秋の風」といつたやうなのでは、どうにも春風の代へ玉では間に合はなくなるのである。
此のやうに、季題そのものを描寫した句が少なくて他の景物を配合したものゝ多いといふことは必しも天文の季題に限らないことであつて、例へば任意の句集を繙いて櫻とか雁とかの題下に並んだ澤山の句を點檢してもすぐに分かることである。此の事實は併し俳句といふものゝ根本義から考へて寧ろ當然なことと云はなければならない。
芭蕉が説いたと云はるゝ不易流行の原理は實はあらゆる藝術に通ずるものであらうと思はれる。此れに就ては他日別項で詳説するつもりであるから茲では略するが、要するに俳句は抽象された不易の眞の言明だけではなくて具體的な流行の姿の一映像でなければならない。其れが爲めには一見偶然的な他物との配合を要する、しかも其配合物は偶然なやう
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