であつても、其配合によつて其處に或必然な決定的の眞の相貌を描出しなければならないのである。芭蕉が「發句は物をとり合すれば出來る物也。夫をよく取合するを上手といひ、あしきを下手といふなり」と云つたといふ。此れは俳句が所謂モンタージュの藝術であることを明示する。併し何でも取合はせればいゝのではない。單にいゝかげんに「物二つ三つとりあつめ[#「とりあつめ」に傍点]て作るものにあらず、こがねを打のべたるやうにありたし」である。
かういふ標準に照らして見るときに澤山な句集の中で佳句と稱すべきものゝ少ない事は怪しむに足りないわけであらう。
俳句の一般的な理論的考察は他日に讓るとして、茲では與へられた「天文と俳句」の題目の下に若干の作例を取上げて、前述の如き自己流の見地から少しばかり評釋を試み度いと思ふ。例句は何等の系統も順序もなく唯手近な句集を開いて眼に觸るゝままに取上げたのに過ぎないのである。
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あか/\と日はつれなくも秋の風 芭蕉
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といふ句がある。秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る。すると氣層は其透明度を増して、特に雨のあとなど一層さうである。それで乾燥した大氣を透して來る紫外線に富んだ日光の、乾燥した皮膚に對する感觸には一種名状し難いものがある。さうして其れに習々たる秋風の感觸の加はつた場合に此等のあらゆる實感の複合系《コムプレキス》を唯十七字で云ひ盡くせと云はれたとして巧に此れを仕遂げ得る人は稀であらう。それをすら/\と云ひおほせたのが此句であると思ふ。それだから、凡ての佳い句がさうであるやうに、此句も亦一方では科學的な眞實を正確に捕へて居る上に、更に散文的な言葉で現はし難い感覺的な心理を如實に描寫して居るのである。此の句の「あか/\」は決して「赤々」ではなくて、から/\と明かるく乾き切り澄み切つて「つれない」のである。しかも「つれない」のは日光だけでもなく又秋風だけでもなく、此處に描出された世界全體がつれないのである。かういふ複雜なものを唯十七字に「頭よりずら/\と云ひ下し來」て正に「こがねを打のべたやう」である。ところが正岡子規は句解大成といふ書に此句に對して引用された「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」といふ古歌がある
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