ないであらう。それは、氣候の循環によつて示される尺度によつて、吾々人間生活の中に起りつゝある變轉の進路に一里塚の道標を打込むといふことが出來ないので、從つて四月の風も九月の風も、名前がちがふだけの恆信風であつて、嬉しさや淋しさの連想を伴ふ春風秋風では決してあり得ないのである。
 實際、季節風(Monsoon)といふものゝない西洋には、「春風」もなければ「秋風」もない。少くも日本の俳人の感ずる春風秋風は存在しない。それだから、西洋だけしか知らない西洋人に春風秋風の句の味が正當に分かる筈はないと私には思はれる。
 大陸と大洋との境に細長い瑤珞のやうに連なる島環國日本は一つには又其複雜多樣な地質地形のおかげて短距離の間に樣々な風俗人情の變化を示すと同時に、又さまざまな氣候風土の推移を見せて居る。此れが爲に色々な天文の季題の背後には數限りもない風土民俗の連想のモザイクのやうな世界が包藏されて居るのである。
 雨の降り方だけ考へて見ても、日本では實に色々な降り方がある。所謂五月雨のやうなものは日本の中でも北海道にはもうない位の特産物である。時雨でも我邦のと同じやうなものが西洋にあるかどうか疑はしい。夕立に似た雨はあつても、「日本の夏」を知らない西洋の驟雨は決して「夕立」の句を生み出し得ないであらうと思はれる。
 此のやうな自然界の多種多樣な現象の分化は、自ら此れ等の微細な差別のニュアンスに對する日本人の感覺を鋭敏にしたであらうと想像される。芭蕉が「乾坤の變は風雅のたね也」と云つたといふのにも、いくらか此の意味がありはしないかと思はれる。實際滿洲とか西比利亞とか露西亞とか、あゝいつたやうな單調な風土氣候をもつた國の住民の中から當然ニヒリズムや、マルキシズムは生れても俳句が生れようとはどうにも想像されにくいことである。
 人事、動物、植物の季題でもそれが所謂季題である限り矢張其の背後に隱れた天文の背景をもつて居ることは勿論である。それ故に飯を食ふことや散歩することは季題にならず、鴉や松は季題にはならないのである。
 俳句に取つてそれ程に大事な季節を直接に指定する天文の季題の句にどんなものがあるかを點檢して見る。實際に統計して見た譯ではないが、兎も角も、私の此處で所謂天文に關する句の多數なことは明白な事實である。尤も、さういふ季題でも、一般の人々に實感の少ない特殊なもの、例へば虎が
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