處で詳論するつもりはない。唯此の一篇の主題としての「天文」を、從來の分類による天文だけに限らず、時候及地理の一部分も引くるめた、メテオロスの意味に解釋することにしたいと思ふのである。
季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。
時に對立する空間的要素が、少くも表面上、何處にも指定されて居ないやうな俳句は可能である。例へば「時鳥ほとゝぎすとて明けにけり」といふやうなものでも矢張發句であり得るのである。勿論此れとても句の裏面には殘燈の下に枕を欹てゝ居る作者の居室の光景の潜在像は現在して居て、それがなければ此等の句は全然無意味な譫語に過ぎないのであらう。
併し、此のやうに、兎も角も表面上では場所の空間の表象を省略することが許されるに拘らず、時の要素の明瞭な表面が絶對必要とされるのは何故か。此れには深い理由があり、此事が又あらゆる文學中で俳句といふものに獨自な地位を決定する根本義とも連關して居ると思はれる。此に就て此處で詳しく述べて居る餘裕はないが、無常な時の流れに浮ぶ現實の世界の中から切り取つた生きた一つの斷面像を、その生きた姿に於て活々と描寫しようといふ本來の目的から、自然に又必然に起つて來る要求の一つが此の「時の決定」であることは、恐らく容易に了解されるであらうと思はれる。花鳥風月を俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。
時の流れを客觀的に感ずるのは何等かの環境の流動變化にたよる外はない。年々の推移を「感ずる」のは春夏秋冬の循環的再歸によるのである。南洋の孤島のうちに、もしも、年中同じやうな氣候ばかり持續して居る處があるとすれば、其島の人には季節といふのは唯の言葉に過ぎないであらう。さういふ、春風もなければ秋風もない國では、季節の感じはありやうはなく、從つて俳句も生れ得
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