日常身辺の物理的諸問題
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逢着《ほうちゃく》する

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)物理学|文献抄《ぶんけんしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+卯」、第4水準2−78−35]
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 毎朝起きて顔を洗いに湯殿の洗面所へ行く、そうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行している間に私はいろいろの物理学の問題に逢着《ほうちゃく》する。そうしていつも同じようにそれに対する興味は引かれながら、いつまでもそのままの疑問となって残っているのである。今試みにその中の二三をここにしるすことにする。
 第一は金だらいとコップとの摩擦によって発する特殊な音響の問題である。普通の琺瑯引《ほうろうび》きの鉢形《はちがた》の洗面盤に湯を半分くらい入れる。そうしてやはり琺瑯引きでとっ手のついた大きい筒形のコップをそのわきに並べて置き、そうしてコップの円筒面を鉢の縁辺に軽く接触させる。そうして顔を洗うために鉢《はち》の水が動揺すると、この水の定常振動と同じ週期で一種の楽音を発することがしばしばある。それでよく気をつけて見ると、これは鉢の縁とコップとの摩擦によって起こる鉢の振動のためらしい事がわかった。宅《うち》の洗面台はきわめて粗末な普通のいわゆる流しになっていて、木製の箱の上に亜鉛板を張ったものであるが、それが凹凸《おうとつ》があって下の板としっくり密着していないために、洗面鉢の水が動揺するにつれて鉢自身がやはり少しの傾斜振動をする。しかるに鉢の底面からは相当離れた所に固定しているコップは不動であるから、そこで相互間の週期的の摩擦運動が起こり、そのためにちょうど弓でクラドニ板をこする場合に似た事がらが生ずるのであるらしい。さてこれだけならば問題ははなはだ平凡であるが、ここで問題になるのは、右のような条件が具備した時でも必ずしもきれいな音響を出さぬ場合と、また非常によく鳴る場合とがあることである。
 古い物理書などに書いてあるとおりガラスのフィンガーボールの縁を指頭で摩擦して楽音を発せしめる場合に、指を水でぬらしておいて摩擦する事になっているが、現在の場合でも接触面が水でぬれている事が必要条件であるらしく見える。これも充分に実験を重ねた上でなければ断言はできないが、これまでの経験ではそう思われる。しかし次に起こって来る問題は、単に水でぬれているだけでそれで充分であるかどうかということである。
 近年のいわゆる「表面化学」の発達によって次第に明らかになって来たとおり、固体ことにガラスや陶器などの表面にはガスのみならずある種類の液体や固体の薄膜を頑固《がんこ》に付着せしめる性質がある。そうして、普通人間の手に触れる物体は自然に油脂類のそういう皮膜でおおわれていて、それを完全に除去するのはなかなか容易でない事が知られている。そこで洗面鉢《せんめんばち》やコップなどにはほとんど当然にそういう皮膜があるものと仮定しなければならない。そうしてその皮膜が厚い時もありまた薄い時もあり、その上をぬらしている水と皮膜との境界面の分子構造もまた時により一様でないかもしれない。それでさしあたり行なってみたい実験は、まずできるだけ注意して油脂類を除去したものと、一方では、また故意に一定量の油脂をかぶらせたのについてそれぞれ発音の模様を験することである。もっともこれに連関しては昔レーリーがガラス板の上で茶わんをすべらせたりした草分けの実験から始まって、その後ハーディの有名な研究(物理学|文献抄《ぶんけんしょう》第一集二五八ページ)などに引き続きいろいろの方面に関係しての文献は少なくはない。しかしそれだけではこの洗面鉢の問題はまだなかなか解決されそうもない。第一水の存在が必要だとすればその水がいかなる役目をするかについては、おそらく何人《なんぴと》もいまだ適確な答解を与えることができないであろう。
 自分の経験では金だらいの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸《せっけん》で一応洗った時によく鳴るようである。しかし絶対に油脂を除去するのは簡単にはできないので、その場合にどうなるかは不明である。
 この場合に油膜の存在と摩擦の関係が明らかになったとしても、この場合の摩擦によって金だらいの規則正しい振動の誘発される機巧についてはまだよくわからないことがかなりに多く伏在しているのである。クラドニの実験や、またヴァイオリンの場合に松やにをつけた毛で摩擦する際にどうして振動が継続されるかの問題についてはヘルムホルツ以来本質的にはほとんど一歩も進んだ解釈は与えられてい
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